2010年04月04日

体験や観念から築き上げたものの中に「真の気づき」はない

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


「気づき」を理解するには、「きずく=築く」との違いを見ればわかります。
「築く」ということは、たとえば家を建築するときのように、時間の経過とともに変化していきます。
整地作業があり、土台がつくられ、柱が立てられ、屋根が乗せられ、壁がつくられていきます。

水道や排水設備が設置され、電気やガスが引き込まれて完成します。
状態を表現すれば、「だんだんと仕上がって」いくことが「築く」ということです。
私たち自身についていえば、生まれてから今までにいろいろな環境で学び、経験を重ね、その歩みの結果として「いま」があるというようなものです。
築いてきたからこそ、現在があるわけです。

しかし、「形あるものはいずれ崩れ去る=諸行無常」のたとえどおり、築いてきたものは不変的なものではありません。
時間とともに形を変えていきます。
私たちの思考もまた、形のあるものです。築かれてきたものです。
時間とともに家は老朽化し、放置すれば朽ち果ててしまいます。
私たちの思考も、築かれたものであるために、時間とともに変化していきます。

一方、「気づく」ということは真実なことであり、刻々と変化してゆく思考の領域にはありません。
「気づき」とは、私たちの思考の領域を超えた体得の世界です。
体得の世界ですから、むつかしく考えようとするあなたの頭脳の働きの外側にあるものです。

気づくということは発見そのもです。
気づきは、築き上げてきたもの、あるいは学んだ結果としてあらわれてきたものではなく、まったく新しいことです。
まったく新しい発見といえるものなのです。

気づきは、どんな権威も、どんな学問も、どんな経験も、いままでに学んできたことも、必死に培ってきたきたことも、すべての体験を元にする先入観も、既成概念もいっさい必要としません。
それらを必要とする「築き」の範疇に、絶対に「気づき」はないのです。

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「自分を持っている」「信念を持っている」というのは美徳だとされているが、悪く言えば「我が強い」「頑固」という事である。
かつて私は、それまでに自分が築き上げてきた「成功」「成功ノウハウ」「人脈」「真理だと思っていたこと」などが、一挙に崩壊した事件があった。
そして、過去の栄光を捨てて、再スタートを余儀なくされた。

私は成功体験から信念(強い我)を持っていたが、今までに築いてきた価値観、先入観、固定観念、既成概念、哲学などを破壊することで、真実を模索し始めた。
そのような色眼鏡を外した「素」の状態で現実を「直視」する事を「素直」という。

私は、あなた方が今まで築いてきた信念を破壊するアドバイザーだが、破壊するのはあくまでもあなた自身である。
それには、かなりの覚悟を必要とする事もあるだろう。
自分が今まで築いてきた「自分」を破壊するのだから。

だが、それは「偽りの自分」であり、「本当の自分」に出会う為には避けて通れない関門なのだ。
それはちょうど、長年研究を続けてきた学者が、自分の仮説に誤りがあっても後には退けない状態に似ている。
アカデミズムも同じで、1つの定説が崩れる事で従来の理論体系が根底から覆される恐れがある為、たとえ事実でも認める事が出来ない事が数多く存在するのである。

例えば、天動説から地動説になり、社会全体を革命的に劇変させる事を「パラダイムシフト」というが、内観とは「自己のパラダイムシフト」に他ならない。
また、自己のパラダイムシフトを起こさない限り、世の中のパラダイムシフトが起きることもないのである。
パラダイムシフトは1人ひとりの心の問題だという事を忘れてはならない。

世の中には間違った常識や概念が氾濫し、人々はそれに洗脳されて生きている。
あなたは今まで社会に洗脳され、自分で自分を洗脳して生きてきた。
大なり小なり、それは否定できない事実である。
こんな偉そうな事を書いている私自身、まだまだ自分で気付いていない価値観や先入観があると思っている。

しかし、恐らく人よりも「素直」であると思っている。
素直とは、何でも信じることではない。
柔軟性な思考を持ち、中道であることだ。
自分の物差しで情報を判断しない事である。
否定も肯定もせず、一度受け止めてから「正見」で判断するという事だ。
従って、「素直」な人は、人にも現象にも自分にも騙されないのである。

前にも書いたが、自らを破壊した私の文章には、あなたの洗脳を解く効果がある。
その私の言葉を理解できるのは、あなたの「素直さ」である。
決して、私の話を鵜呑みにしろという事ではない。
重要な事は、「素直」になるということである。

私は人々を惑わそうとしているのではない。
素直というのは、価値観や先入観という色眼鏡をを外した状態で吟味するという事である。
価値観や先入観の強い人は、頭ごなしに否定する傾向があるので騙されにくいと思われる事が多く、本人も自分が騙されない自信を持っている人が多い。
ところが、自分の価値観や先入観と一致する事には騙されやすいという特徴を持っている。

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釈迦は「疑念を持つな」と説いた一方で、「たとえ私の言葉でも疑ってかかれ」と言った。
文字通りに解釈すれば矛盾しているが、これは中道で素直であれという事である。

『日月神示』にも同様の事が記されている。

「洗濯と申すのは何事によらん、人間心捨ててしもうて、知恵や学に頼らずに、
神の申す事一つも疑わず、生まれ赤子のうぶ心になりて、神の道守る事ぞ」
「心して、怪しいと思うことは、たとえ神の言葉であっても一応は考えよ。
神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ」


私の話は、一般常識では受け入れられない非常識な話である。
そのような話で人々を洗脳できるはずがない。
私は人々の洗脳を徐々に解いていく事を目的としている。
自分が洗脳されているという事は、誰もが否定するかも知れないが、これは絶対的なものだと断言する。
もし、私の話に洗脳されたとしたら、それは自己責任である。
山本健二氏や私の言葉であっても、十分に納得してから実践して頂きたい。

重要な事なので、もう一度言っておく。
今までに築いてきた価値観、先入観、固定観念、既成概念、哲学などを破壊した状態で、物事を正しく観ることを「素直」という。
それは色眼鏡を外した「素」の状態で、柔軟性があって中道である状態を指す。

今、これを真剣に読んでくれている読者は、「もうすぐ本当の自分に出会える」という期待感や喜びの感情を持っているかも知れない。
だが、それこそ既に先入観の奴隷になっている証拠である。
「本当の自分なんて本当に存在するのか?」「本当に自分にも真の自己発見が出来るのだろうか?」、そんな観念を持っている人も同様である。
期待感や疑念を持つあなたに対して、「本当のあなた」は苦笑している事だろう……。
posted by アンリ・クリスチャン at 19:33| Comment(0) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月03日

「気づき」はむつかしくない

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


気づく人は一日あれば気づく

先日のように「気づき」は簡単です。
人間であれば誰でも内面に「真実の自分」を持っていて、それを見つけるだけですから「気づき」は実に簡単なことです。
「気づきは簡単、気づく人は一日あれば気づく」と、私は常々言っていますが、「気づき」をむつかしくしているのは、よけいな知識です。
「こうしなければばらない」とか「それは間違っている」などといった考えは誰にでもあるでしょう。
そうした考えは、先入観や既成概念による価値観です。

先入観や既成の価値観によって、多くの人は自分自身を縛りつけているのです。
その中には、苦労して培った体験があるかも知れません。
自信に満ちたものもあるでしょう。
しかし、それらが自分を縛る固執した考え、固定観念であるものが多い者です。

また、多くの人は体験に弱い者です。
体験談は人々の欲望に密着しやすいために説得力を持っています。
たとえば、「私はこうして救われました」などという言葉がよく宗教などで使われますが、これはかなりの説得力をもつ言葉です。
感情の中に入り込み、多くの人々の感情を納得させてしまう言葉です。

感情が膨らむと、ものごとが真実かどうかはどうでもよくなってしまいます。
これは大変危険なことで、混乱の原因になるということは誰でも理解できると思います。
なにも他人の体験に弱いだけではありません。
人は自分の体験にも弱いのです。
自分の体験によって先入観をつくり、特別な価値観を持ってしまいます。

ここで誤解しないでください。
「体験が悪い」といっているわけではありません。
「体験を重ねることで新たな観念ができてしまうことに問題がある」と言っているのです。
ここがポイントです。
体験を重ね、自我を膨らませてはかない人生にするのか。
あるいは、その体験を超えて、自然体で調和とやすらぎの生活を実現するのか。
それを選択するのはあなた自身であり、あなたの自由です。

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人は生まれてから様々な体験を積み重ねて生きている。
この「積み重ね」が「罪」になることもある事を忘れてはいけない。
あらゆる体験は原則として「因果律」に基づいており、楽しいこと嬉しいこと、悲しいことや苦しいこと……いずれの体験も必然である。

この世では「作用反作用」という物理法則が厳然と働いており、意識が素粒子であれば、全ては因果律に基づく現象であることは明白である。
故に、必要があって経験する出来事であり、魂の糧となっているのだ。

問題は、それらの体験を自我がどのように判断するかによって、偏った価値観や固定観念を生み出し、「正見」が出来なくなって自分を見失っていることである。
例えば、失敗や苦労から生まれた価値観や先入観、或いは失敗や苦労から培った成功体験に基づく価値観や先入観……。

また、不幸があって落ち込んでいる時などに、無意識に自分を見つめなおして、何らかの気づきを得たことがある人も多いだろう。
その時、「因果律」を自覚した人も少なくないはずである。
その「気づき」を与えてくれているのは、他ならぬ「本当の自分」なのである。
「本当の自分」は、遠く離れた世界に存在するのではない。
あなたの心の中に「実在」しているのである。

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かつて、イエスは言った。
「私は真理である」
「真理を知らないことが最大の罪である」


イエス・キリストを知らない事が最大の罪とは、一体どういう事なのか。
イエスは自分を「神の子」と名乗り、「世の光」であり「初めであり終わりである」と言った。
つまり、イエスは「永遠の光である神の子」だったのだ。
それは決して、「イエスという人間を崇拝せよ」よいう意味ではない。
永遠の光である神の子の正体は「本当の自分」であり、イエスは釈迦と同じく、その事を悟ったということである。

「全人類キリスト化計画」とは、その意味である。
「全人類ブッダ化計画」でも良いのだが、ブッダは「真理に目覚めた人」、キリストは「救世主」という意味なので、敢えて「全人類キリスト化計画」にした。
私はクリスチャンではないし、むしろ「イエスが唯一の神の子だった」というキリスト教の教義に真っ向から反対する者である。
しかし、決してイエスを否定しているのではない。
あくまでも、人類の意識進化(真の自己発見)を妨害している「キリスト教会」を批判しているのである。

御託を並べるのはこれくらいにして、重要なことを伝えておこう。

イエスは言った。
「私は汝の手や足よりも近くにいる」
「私は常にあなた方のハートをノックしている者である。私に気づきなさい」


これは、本当の自分の「内なる声」に気づきなさいという意味である。
あなたが一方的に「本当の自分」を模索しているのではない。
「本当のあなた」もあなたに気づいてもらうべく、常にあなたに呼びかけているのである。
これは決して比喩などではなく事実なのだが、あなた方がその声を無視しているのである。
それに気づく為には、価値観や先入観という「観念」を破壊しなければならない。

「観念せよ」という言葉がある。
人が罪や死から逃れられない状況に追い詰められた時に、「覚悟しろ」という意味合いで使われる事が多い。
それは仏教用語の「観念」に由来し、「極楽浄土を念じろ」という意味である。
その真意は、「自らの心を観察して臆念せよ」、つまり「内観して懺悔せよ」との意味である。

私は声を大にして言う。
「自己の観念に観念せよ」

もう一度言おう。
「自己の観念に観念せよ」

更にもう一度言おう。
「自己の観念に観念せよ」
posted by アンリ・クリスチャン at 01:52| Comment(8) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月01日

何よりも先に「ほんとうの自分を知らなければ始まらない」という決意が決め手

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


私たちは、この空間で生かされ、そして生きています。
この現実をつぶさに観察することさえできれば、次々と新しい事象に気づくことができます。
これはちょっとしたコツさえつかんでしまえば誰にでも簡単にできることです。
「真の気づき」、「真の自己発見」を体得するには、何よりも先に「ほんとうの自分を知らなければ始まらない」という決意が決め手となります。
そして日々の反省と既成概念の打破です。

真の気づきを体得した状態は、今までの古い殻をかぶったような自己とは異なり、まったく新しく生まれ変わった自分自身の自覚があります。
これをカメラにたとえると、通常の場合写真を撮るとき、ピントを合わせてシャッターを切るのですが、「まったく新しく生まれ変わった自分自身の自覚」とは、ピントを合わす必要はなく、最初から被写体にピントが合っているという状態です。

何かものごとを判断するときに、ピンボケ状態からピントを合わせてシャッターを切る(判断する)のではなく、あらゆるものに焦点を結び、いつも鮮明に見え続けているので結果がそこにある(決断した)状態なのです。
常にものごとの本質が鮮明に見え続けている状態なのです。

そしてこれは、決して緊張し続けている状態ではなく、緊張も弛緩も超越した状態であり、調和している状態なのです。
緊張も弛緩も超越して調和している状態だからこそ、ものごとの本質がハッキリと見え、迷いも躊躇も無関係でいられるのです。

また、別の表現をすれば、生を楽しみ楽しんでいる状態でもあります。
何の問題もなくなっている状態なのです。
むつかしい表現をすれば、「相対の世界から脱却して一元の世界に参入した意識」ということになります。
つまり、これが「ほんとうの自分発見」であり、「真の気づき」「真の自己発見」なのです。

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私は前項の最後に次のように書いた。
「本当の自分」を知らなければ使命を知る由もなく、「本当の自分」を知ることが最優先であり、この世に生を受けた「第1の目的」はそこにあると言っても過言ではない。

山本健二氏も同様の事を言っている。
「真の気づき」、「真の自己発見」を体得するには、何よりも先に「ほんとうの自分を知らなければ始まらない」という決意が決め手となります。

「人生は自分探しの旅」と言われるが、ギリシャにも「汝を知れ」という標語がある。
孔子の言葉にも「朝に道を聞かば夕べに死すとも可也」とあるが、「朝、本当の自分を知る事が出来れば、夜に死んでも構わない」という意味である。
「明日死ぬとしたら何が大切か」で、「本当の自分を知りたい」と思うのも自然な欲求である。
今一度、「本当の自分を知りたい」という決意をして頂きたい。

現代人は記憶喪失者と同じである。
人々は今、「私は誰?」「此処は何処?」という状態にある。
「私は私だ」「私は此処に居る」と思っている人は、記憶喪失で自分が誰かを知らず、何処に居るかを知らず、何処から来て何処に行くのかを知らない人である。
それは「迷える浮遊霊」と同じ状態で、それは他界してからも同じ状態を続けなければならない事になる。

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コズミックアカデミーの天野聖子氏は、『人生を変える自問自答法』の中で次のように述べている。

――明るい絶対界を知っている魂は、何回もの転生で、霊界の暗闇の中を迷い続けることが、どんなに苦しいか知っています。
ですからその魂は、悪業を持って死ぬことの恐怖や不安を、心のフィルターを通して常に私たちに伝えています。
死を恐れてしまうのは、そのためです。
魂の嘆きを理解できないと、いつまでたっても生死を超越することは難しいのかもしれません。
逆に考えれば、魂が安心するような生き方をして、明るい方へと向かえるような生き方をすれば、生死を超越できるということです。
「今、いかに生きるべきか?」と魂を見つめ、向上させることのできる心を、生きている間に作っていかなければなりません。
そうしなければ、魂は苦しみ、迷いの転生を永遠に繰り返すことになります――


結論から言うと、「私」という個体は世界中に存在する。
つまり、すべてが「私」なのだ。
それを「別々の意識だ」と思うのは、「自我」を自分だと錯覚して本質を悟っていない、迷っている状態だからだ。
人類は集合無意識で繋がっており、その集合無意識こそが「神」と呼ばれる存在である。
それは究極的に、宇宙レベルでの集合無意識に繋がっている。

個人という個体に生まれ、個人という意識を持った理由は全体の進化の為だが、その「個人」という分離観念によって、人は輪廻を繰り返す放浪者となってしまったのである。
波打ち際で弾けた水滴が大海に戻るのと同じく、我々は宇宙意識から出て宇宙意識に還るのである。

水蒸気(大気)が霊体だとすると、水は幽体、氷という個体が肉体である。
水蒸気が冷えて雨となり、水が冷えて氷となり、氷が蒸発して大気(天)に還るのだ。
あなたと私は同じ大気であり、宇宙に遍在する無限意識なのである。
この「宇宙即我」「自他一体」の境地が悟り(差取り)であり、そこには何の不安も恐怖も存在し得ない。

しかし、それを知ったところで「知識」に過ぎない。
その境地を体験する事が、本当の自分に出会う事であり、輪廻を卒業する事なのだ。
その方法として、かつて私は「宇宙瞑想法」というメディテーションを開発したが、それよりもまず「自己観察=内観」から入らなければ、真に意識改革を出来ない事を身を持って実感した。

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「心の学校」の佐藤康行氏はこのように述べている。

【目覚めよ!】

「私たちは、起きていながら眠っているようなものです。
本当に目覚めなければなりません。
本当に目を覚ますとはどういうことでしょうか。
それは本当の自分、真我に目覚めることです。
真我に目覚めていったとき、悩みは一瞬にして消えてしまいます。
悩みや苦しみが病気になって現れていたら、それも消えていきます。
そして、愛と喜び、感謝に満ちた日々が送れるのです」


【真に目覚めるべき意識】

「私たちが本当に目覚めなければいけないのは、個体意識ではなく、全体意識なのです。
生きている人間は、どうしても自分のことだけを考えがちです。
当然、他人も同じように考えます。で、ぶつかってしまいます。
いままでの社会は、その繰り返しでした。でも、これからは違います。
一人が全体を考え、全体は常に一人を守る。そういう世の中になっていくのです」


真我に目覚めることが「天人合一」への道なのである。
『何よりも先に「ほんとうの自分を知らなければ始まらない」という決意が決め手』というタイトルだが、佐藤氏も同様のことを述べているので、ついでに紹介しておく。

【真我が一番の理由】

なぜ、真我がそれほど大切なのでしょうか。
それは、すべての人間に共通する最高の価値観で、誰もがそれを望んでいるからです。
中には「俺は真我など望んでいない」という人がいるかもしれません。
「俺はお金を儲け、面白おかしく生きればそれで満足」――――と。
では試しに「あなたの人生にとって、最も大切なものを百項目書き出してみて下さい。
そして、その中で大切なものから順番に番号をつけてみてください」と言ったら、どうなるでしょうか。
おそらく全員同じものが一番になるはずです。それは「命」です。
命と比べたら、残りの二番から百番までを全部足しても、一番に叶わないのではないですか。
真我とは命そのものです。
この一点に集中していれば、他のものはすべて自動的にくっついてくるので、何の不足も不満も起きません。
それでもあなたは、人を押しのけたり、自分の命をすり減らしながら、お金や名誉や地位に執着しますか。

posted by アンリ・クリスチャン at 00:12| Comment(6) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月31日

すべては「単純明快」な気づきから始まる

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


あなたは何のために生まれて、そして死んでいくのか

「ほんとうの自分自身」を知り、そして自由になることは、単純明快な気づきから始まる。
自己発見の第一歩は「過去の自分」との決別からです。
「ほんとうの自分」を発見するプロセスは、たえず新しい単純明快な気づきによる出会いからです。
決して過去から持続してきたものではありません。

気づきとは、ほんとうのことを発見することです。
ボケてごまかす人生、ウソで固めた人生を送りたかったら、気づく必要はありませんし、気づきなどに関心を持つこともないでしょう。
また、何ら人生に疑問を持つこともなく、ただ面白おかしく生きたければ、絶対に気づくことはありません。

私たちは、何のために生まれ、老い、病気をして、そして死んでいくのか?
いったい何をすればいいのか?
何が真実で、何が調和的なのか?
何が偽りで、何が歪みや混乱の元になるのか?
こうしたことを真剣に考えるとき、内から真実を究明したいという欲求が生まれるはずです。

この欲求は、いまの自分に分からないことや、自分にないものを他から手に入れようとする願望でもあります。
必然として、時間とお金をかけて入手しようとするはずです。
人によっては、この願望は宗教や精神世界に足を踏み入れるきっかけともなります。

そして、新たな知識を取り入れ、超能力とか、悟りとか、解脱とかに強い関心を持ちながら体験を重ねていこうとします。
しかし、ここが「真の気づき」を体得できない原因の一つとなり、脱線する要因にもなってしまいます。
精神世界のさまざまな知識や現象は、一つのとらわれに他なりません。
そうしたとらわれ、何かに固執した考えになると(当人は、自分は固執している思考だとは決して思わない)、すべてのものごとを限定した偏った見方で見るようになってしまいます。
現実をしっかり見極めることができなくなってしまうのです。

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自己発見の第一歩は「過去の自分」との決別からと言われても、漠然としていて分かりにくい。
そこで私は次のように解釈してみた。

人体を構成する細胞は常に新陳代謝をし、脳細胞や骨細胞も含めて周期的に入れ替わっている。
つまり、「自分」という肉体は常に生まれ変わりを繰り返し、普遍的な存在ではないのである。
代謝サイクルに最も時間が掛かる骨でも、成長期の子供で半年〜1年、
成人でも約3年で骨組織の全てが生まれ変わると言われている。

「3年前の自分の肉体は完全に消滅している」という事実を考えれば、「自分」という存在は肉体ではない「意識」だと考えざるを得ない。
だが、その「意識」でさえも、不変のものではないとしたらどうだろうか。

アーリオーンは次のように言っている。

何もかも移り変わってゆく中で、「自分」という意識だけは置き去りにされてゆく、と思っている人は多いが、この意識自体が本当は移り変わっている事に気づかない。
万物流転の法則に逆行するものは、何一つ無い。
「私」という意識は、本当に不変なのか?
5歳の「私」と20歳の「我々」、30歳、40歳の「私」の共通項は何か?
人間の五感すら変化してゆく、育ってゆく。
そういった万物流転の法則の中で不変なものはあるのだろうか?

人は、「私」という意識が不変であるという事を信じたい、と思っている。
「私」すら変化してしまうのであっては、どこに基準を置いて良いのか分からない、と思っているからだ。
こうして人は自分自身の存在に思いを馳せ、その思いの中の普遍的な部分を論理体系化し、哲学、或いは宗教という名前で分類してきた。

こうした普遍化された「思い」の体系も、見直しを迫られている。
それは、何故だろうか?
論理化、体系化されてきた「思い」の基盤となる人間の生活基盤自体が崩壊し、普遍化という名前が陳腐なものになろうとしているからだ。


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通常、意識は無形の存在だと考えられているが、意識の正体は「素粒子」だという事が分かってきている。
素粒子は物質を構成する最小単位の粒子的だが、同時に波動的な性質を持っている。
つまり、物質(素粒子)は波に還元され、波から素粒子が生まれるという生滅を繰り返しているのが宇宙で、意識と物質は同一のものであり、万物が同じもので構成されていることが分かる。

釈迦はそのことを頭脳で理解したのではなく、心で悟ったのである。
これが「宇宙即我」「天人合一」の境地である。
釈迦は現代の量子力学以上の科学者だったのだ。
宗教とは「宇宙を示す教え」と書き、本来は宇宙学なのである。
故に、科学と宗教は同一のものだが、デカルトが提唱した「物心二元論」により、物質を扱う科学と、心を扱う宗教とに二分化されることになった。
科学は心を無視するが故に暴走し、心は見えない世界だけに宗教も暴走してきた。
両者は再び統合する時代を迎えようとしているが、それは1人ひとりの認識に懸かっていると言えるだろう。

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釈迦はこのように説いている。
「人間というものは、『常に移り変わっているもの』を『永久に不変のもの』と錯覚する事で執着を作り出している」

山本健二氏が問う「何のために生まれ、老い、病気をし、そして死んでいくのか」は、釈迦が説いた四苦「生老病死」だが、その四苦を克服するのが内観である。

「老」「病」「死」は「生」から生まれ、この世に生れてきたこと自体を「苦」だと説いた釈迦の真意は……決して悲観的なものではなく、「苦」を直視し、諸行無常の真理を悟り、今の楽しみや苦しみは永遠(実在)のものではなく、目の前の現象に囚われてはいけないという事である。

釈迦は、この四苦に更に四つの四苦を加えて「八苦」と呼んだが、それを滅する方法として「八正道」を説いた。
八正道とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の八つの正しい道だが、それを知ったからといって悟れる訳でもないし、私も難しい仏法を解説する気は毛頭ない。

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では、釈迦は何故わざわざ「八正道」などを説いたのだろうか。
それは、内観をする為のアドヴァイスのようなものだと思えば良い。
中でも重要な事が、第一に記されている「正見」で、「自己中心的な見方や偏見をせずに中道の見方をすること」という意味である。
つまり、山本健二氏が教えている通り、「価値観や先入観を捨てて現実をしっかり見極める」という事なのだ。

八正道は八苦を克服し、輪廻を解脱して涅槃に至る為に説かれた道だが、残り七つは意識的な努力を心がけても意味がない。
意味がないというのは、それによって人間が本質的に変わる事はないという意味である。
残りの七つは、「真の気づき」「真の自己発見」によって自然体に発露するようになる。

「何が真実で、何が調和的なのか?」「何が偽りで、何が歪みや混乱の元になるのか?」という事も、内観によって知ることになる。
「いったい何をすればいいのか」という使命を悟るのも、「何の為に生まれて来たのか?」を知る必要があり、「明日、死ぬとしたら何が大切か?」を問いかける必要がある。

人は生まれてくる前に、「使命」を決めて生まれてくると言われているが、それ以前に万民に与えられた課題が「真の気づき」「真の自己発見」、即ち「内観」なのである。
「本当の自分」を知らなければ使命を知る由もなく、「本当の自分」を知ることが最優先であり、この世に生を受けた「第1の目的」はそこにあると言っても過言ではない。

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「心の学校」の佐藤康行氏も次のように述べている。

【人生の目的を問う】

「根本から問い直す――――人生にはそういうことも必要です。
何の為に勉強するのか、何のために仕事をするのか。何の為に生きるのか。
その解答を点検して生き方に反映されていく。
それが真我に近づく第一歩になります。
車を運転する時、必ず目的地を意識します。
そうでなければ、車は運転できません。右に曲がる、左に曲がる、直進する。
その判断の背景には目的地があります。人生も同じです。
それがわかって初めて生き甲斐も出てくるのです」


【真我に目覚めやすい人】

「早く真我に目覚める人は、大きく分けて二つのタイプがあります。
一つは、悩みや問題を抱え、解決したいと強く願っている人たち。
もう一つは、人生の意味や、自分の存在価値を求め、『自分探しの旅』をしている人です。
きっかけは悩みの克服でも、自分の価値を見つけるのでも、どちらでもいいのです。
きっかけをつかんで真我を体感し、体得できれば、それまで自分の歩んできた行程はすべて意味があったということになります。
いま大きな悩みや苦しみを抱えている人は、『ちょうど良かった』と思って、勇気をふるって、『真我の開発』に取り組んでみてください。
それがすべてに勝る解決策になります」
posted by アンリ・クリスチャン at 20:46| Comment(16) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日常生活の中で「ほんとうの自分自身」に気づく

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


では、日常生活の中で悟る方法はあるのでしょうか。
「ほんとうの自分」を発見する方法はあるのでしょうか。
日常生活の中で「ほんとうの自分」を発見し、不安や恐怖と無縁になることは可能なのでしょうか。

答えは、可能です。
まえがきでも述べたように「ほんとうの自分自身」に気づくということは、「真の気づき」、「真の自己発見」を実現するということです。
「真の自己発見」とは、ほんとうの自分自身に気づき自由になることです。
あらゆる束縛から解放されて、自由自在の存在になることです。
しかも、これを日常生活の中で実現しなければ意味がありません。

ところで、自由とは何でしょうか。
また、自由自在とはどういう状態でしょうか。
宗教や哲学、その他諸々の思想などでいう自由は本当の自由ではありません。
また、自分が好き勝手に生きることも本当の自由ではありません。
簡単にいえば、自我の消えたなにものにもとらわれない状態が自由です。
さらにその自由から境界を完全に無くしてしまった状態が自由自在なのです。

しかし、そうした定義は重要ではありません。
その意味を知ったからといって自由になれるわけでもなければ、自由自在にもなれないからです。
要は知ることではなく、実際にそれを体得することです。

また、「ほんとうの自分」の発見は、むつかしいことではありません。
だれでも簡単にできることです。
発見するためには特別な勉強やトレーニングも必要としないし、あらかじめ準備しておくものはなく、また、どこかへ出かけていく必要もないからです。

「ほんとうの自分」を発見して自由になるためには、まず非難されることがあっても恐れることなく、ただひたすら自己の内面を観察していくこと、過去の情報に頼るのは最小限にして知恵を出す工夫をすることなどがポイントになります。

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「真の自己発見」によって自我が消え、あらゆる束縛から解放されて自由自在の存在になる……この意味を簡単に説明しておこう。
自分を「個人」だという分離観念は、迷いから生まれた錯覚である。
人は「本当の自分」を知らない為に分離観念を生み出し、それによって自らを限定した存在として束縛しているのだ。

「本当の自分」を発見して真理を悟ると、無限意識と融合して自由自在となる。
それはちょうど、自縛霊が成仏するのと同じである。
「自我が消える」というのは真我(本当の自分)に目覚めるという事で、無限意識(宇宙意識)と融合して無我(無限我)となる事を意味する。
これを「天人合一」「神人合一」「宇宙即我」などと呼ぶが、山本健二氏の言う通り、重要な事は実際にそれを体得することである。

だが、予め理論を知っておく事も必要なことだと思う。
何故なら、「本当の自分」を知る為の近道になるからである。
そうでなければ、釈迦も説法をしなかっただろうし、日蓮も「事理一体」という事を説いている。

問題は、そのような知識や観念に囚われる事も一種の宗教であり、山本健二氏は「内観の邪魔になる」と主張している事である。
宗教や精神世界の教義や教理、知識の積み重ねでわかった「自分自身」はイメージの世界、空想の世界での「自分自身」であり、心(感情)によってつくり出された蜃気楼のようなものである。

この事を前提としつつ、最小限の情報としても利用する……。
難しく考える必要はなく、理論的に理解したら、その知識を手放して囚われないというスタンスでいれば良い。
今後も理論的な解説を度々行う事になると思うが、そのような認識で読み進めて頂きたい。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:49| Comment(0) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月30日

宗教や精神世界に自分を求めるのは逃避にすぎない

『絶対変革』より↓


心の内側の不安を解消し、存在の不安に答えを出そうと、宗教や哲学、その他いわゆる精神世界に入っていく人が少なくありません。
宗教や精神世界に身を置くことで、「自分とは何か」の答えを発見しようとするわけです。

しかし、宗教や精神世界に身を置いたところで根源的な不安は解消されません。
たしかに一瞬の不安の解消ややすらぎは得られるかもしれませんが、それはごく限られたある枠内での不安解消であり、心のやすらぎです。
絶対的なやすらぎでもなければ、絶対的な安定でもありません。
その理由は、宗教にしろ精神世界にしろ、つまるところは教義や教理、それにさまざまな知識の積み重ね以外のなにものでもないからです。

そうした知識の積み重ねでわかった「自分自身」とはイメージの世界、空想の世界での「自分自身」にすぎません。
言ってみれば、心(感情)によってつくり出された蜃気楼のようなものです。
私たちが考えたり、感じたりする認識器官はすべて頭脳です。
頭脳の反応によって、私たちは日常生活を送っています。

頭脳は過去から蓄積したデータによって反応します。
頭脳はコンピューターのようなものですから、頭に入っている情報の中から、その情報を必要に応じて引っ張り出して答えを出したり、言葉や文字に表現したりしています。
さらに、行動に移したりもしています。

だから、頭脳に入っていない情報は出てきません。
生まれてから現在に至るまでの間の環境やその環境の中から学ぶことがら、そして教育の過程によって繰り返して教わり、覚え、体験し、経験を積み重ねることによって、頭脳は「私」、「私の考え」、「私のもの」という認識、あるいは表現をしているのです。
「私」、「私の考え」、「私のもの」という認識、あるいは表現・行動は、すべてそうした「過去の産物」です。

今まで「自分自身」と思っているものが「過去の産物」であるように、宗教や精神世界で得られたと思う自分とは、「新しく付け加えられた外側の飾り」にすぎません。
頭脳に新しくインプットされた情報を「ほんとうの自分自身」と錯覚しているわけです。
宗教や精神世界で自分を知ろうとしても、それはムダな行為と言っても過言ではありません。
ますます「ほんとうの自分自身」から遠ざかってしまう逃避行為以外のなにものでもないのですから。


転載終了

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私のニックネームは「アンリ・クリスチャン」で、
ブログ説明には「全人類キリスト化計画」と謳っているが、
私はクリスチャンでもなければ、
特定の宗教宗派や思想に属する者ではない。

宗教書や宗教家の言葉を借りて解説することもあるが、
それは必要な場合に於いてのみ引用しているだけである。

大本の聖師・出口王仁三郎は自らの教団を、
政府に弾圧させる事で「宗教破壊」の型示しをし、
次のように語っている。

「もうこれからは宗教のない世の中になるんや。
しやから神殿なんて必要ない。
石でも積んで拝んどいたらええ」


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肥田式強健術の創始者・肥田春充も悟りに到達し、
『宇宙倫理の書』という宗教的科学書を書き残したが、
宗教は国民を奴隷にするものだとして猛烈に批判した。

人々を盲信させ、自らの無限力を否定するような宗教がはびこっては、
日本は滅びてしまうと言って、新興宗教を徹底的に攻撃したのである。

「私は天下の大無頼漢である。悪党の巨魁である。
けれども天下の生神どもは、私の足元に踏みにじってやる。
悪党に踏みつけられるような神様じゃ、致仕方あるまいな」


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「本当の自分」を知れば宗教は無用の存在となる。

そして、「本当の自分」を知る為には、
宗教の教義は往々にして邪魔になるのだ。

釈迦やイエスは今のような宗教団体を創ったのではなく、
「本当の自分を知る方法」を説いたのである。

『日月神示』には次のように示されている。

「教派や教義に囚われるのは邪の教え、早く卒業してくれよ」

「宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ」

「真の信仰に入ると宗教にとらわれなくなるぞ」


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少なくとも、内観(自己観察)をする時は、
信仰している宗教の教義や、
特定の哲学や思想を切り離さなければならない。

それらに囚われている限り、
モンロー研究所で言うところのフォーカス23(囚われ領域)、
フォーカス24〜26(信念体系領域)から抜け出すことは出来ない。

そして、輪廻転生地点とされるフォーカス27(天国)までが
「迷いの世界」という事になり、
その世界に「本当の自分」は存在しないのである。

冥王星のオコツトという存在は宗教について、
「変換期の知識を人間の意識が歪曲化させたものです」
と述べている。

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だが、本来の宗教というのは読んで字の如く、
「宇宙を示す教え」であり、超科学である。

また、巷の神社仏閣も宗教法人格で、
初詣や冠婚葬祭も宗教行事の一環であり、
「宗教」という言葉そのものに対して、
ネガティブなイメージを持つもの不調和である。

また、宗教活動をしている人々に対して、
嫌悪感を持ったり、批判的になったりすることも、
それ自体が不調和な意識であることに気づく必要がある。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:10| Comment(13) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月29日

自分が分からなければ決して満たされることはない

『絶対変革』より↓


たくさんの質問を並べましたが、答えはどうだったでしょうか。
「何が自分にとって大切か」を突き詰めていくと、最後に「自分」が残ります。
自分を大切に思うことは悪いことではありません。
自分を大切に思えない人間は、周りの人も環境も大切に思うことはないからです。
しかし、人間というものはとかく、「自分を大切に思う」ことを誤解しがちです。
特に現代人には、「自分を大切にする」ことと「自分の我、あるいは欲望を大切にすること」を錯覚している人が多いのです。

いろいろなモノを手に入れたい、お金や地位や名誉、健康も手に入れたい……。
精神的なやすやぎ、豊かな時間、冷静で的確な判断力、調和のある実行力も身につけたい……。
そうした欲望を満たすことを、自分を大切にすることと勘違いしています。
自分を本当に大切にすることとは、この世界のすべての物事と調和することです。

そこで、大きな問題が出てきます。
大きな問題とは、「では自分とは何か」ということです。
自分が分からなければ自分を本当に大切にしようがありませんし、何をすべきかも判然としません。
現代は「不安の時代」といわれています。
実世界でありながら実感が持てない現実、何のために生きているのかがはっきり認識できない自分、「どこから来てどこへ行くのか」がつかめない自分……。
そうした自己喪失の時代が現代なのです。

実体の分からない自分の内側の空白、不安という心の暗黒を埋めようと、人はいろいろなものを求めます。
自分以外の人間とのコミュニケーション、物質、宗教や精神世界でのやすらぎなど、ありとあらゆる物事で空白を満たそうと試みます。
しかし、満たされようとしても満たされないのが現実です。
仮に物質的に満たされたとしても、心の内側の不安、存在の不安が解消されることはありません。
こうして現代人は、いつまでたっても不安という迷宮の森をさまよい続けることになるのです。


転載終了

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「自分を大切にする」ことと
「自分の我、あるいは欲望を大切にすること」
を錯覚している人が多いとのことだが、
これは自我を「自分」だと思い込んでいるからである。

真我である魂の意識が半覚醒すると、
「宇宙=自分」だという認識が芽生え、
さらには自分が宇宙を包み込んでいることが感覚化されてくる。

要するに、宇宙とは自分の「内側の世界」だということだが、
もちろん自我(肉体の自分の意識)では感じることはできない。

宇宙を内包している真我の認識を、
胸のセンサーが感じ取っているのである。

故に、「自分を本当に大切にする」=
「この世界のすべての物事と調和する」ということで、
「人類を平等に愛している」という表現もできる。

太陽が万物に等しく光と熱を与えているのと同じである。

人間の魂は太陽神の分魂だと言われているが、
私の感覚からすると本質的には、
太陽は自分の魂の投影(物質的顕現)なのだ。

従って、太陽瞑想も魂の半覚醒に効果的で、
もちろん「ハイパーネオデジタル内観」に導入している。

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精神的なやすやぎ、豊かな時間、
冷静で的確な判断力、調和のある実行力……。


これらはネオデジタル内観によって得られるものだが、
山本健二氏が指摘している通り、
そうした欲望を満たすことが自分を大切にすることではない。

また、人とのコミュニケーション、
物質、宗教や精神世界など様々なモノで、
自分の内側の空白や不安を埋めようとしても、
それは束の間の蜃気楼に過ぎず、
真我である魂の意識に目覚めなければ、
決して満たされることはないということである。

自分の外側の世界のみに目を向けて、
欲求や欲望を追い求めても本当に得られるものは何もなく、
意識進化の道を逆走していることがお分かりだと思う。

宗教はもとより、精神世界やスピリチュアルの指導者、
あるいはそれを求めて群がっている人たちは、
今一度、そのことについて内省してみた方がいいだろう。

ヒマラヤ聖者のヨグマタ相川圭子氏も、
次のように述べている。

本当の姿に立ち返りたいという望み

私たちは、常に無意識に源に還りたいと望んでいます。
自分の本当の姿に立ち返りたいと、
深い無意識の底から望んでいます。
それは、神から与えられた真の生きる目的なのです。
どんなに幸せであっても、物質的に恵まれていても、
お友達がたくさんいて、家族の愛に囲まれ、
さまざまな心の豊かさを持っていても、
何かが満ち足りていないのです。


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「何が自分にとって大切か」……

最終的に残るのが「自分」だということだが、
意識の拡大に伴って「自分」という概念は変化していく。

宇宙神霊アーリオーンは、
日本人に向けて次のようなメッセージを送っている。

「明日、死ぬとしたら、今、何が大切なのか?」

「自分と自分の身内だけ良ければいいという考え方が、この日本を駄目にした」

「まず、あなたから今までの考えや生き方を検討してみて欲しい」


明日、死ぬとしたら、今、何が最も大切なのか……
それを知ることは人生で最も重要なことである。

脳波が下がる眠りに就く前に、
自らに問いかけることが急務である。

最初は日によって違う答えが出て来るかも知れないが、
やがて本当に大切なものが見えてくるはずだ。

死を想定する事は潜在意識に悪い暗示になるのではないか?
という不安の声もあるので、その不安を解消しておこう。

まず、「死を恐れて生きろ」という話では決してなく、
アーリオーンが真剣に考えるように提案しているのである。

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サティア・サイババも、次のように教えている。

「常に死を意識して生きていなさい。
そうする事で、あなたは常に正しい生き方を心がける事が出来る」


『日月神示』には次のように示されている。

「生命捨ててかからねば、誠の理解には入れん道理。
身慾信心では駄目。
いのち捨てねば生命に生きられん道理」


骨法という格闘技の堀辺正史は、
用心棒の仕事をしていた時、
毎日「死」を覚悟して生きていたらしいが、
次のように述べている。

「人は死を覚悟したとき、初めて生命の重さを知り、
己の生命を燃焼させる生き甲斐の発見に努めるものである」


葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」も同様の思想で、
武士にとって生に執着する事は私利や欲に通じる恥ずべきことで、
その戒めとして述べたものである。

それは生命を軽視したものではなく、
裏を返せば「生命の尊厳」を説いているのである。

そして、常に死を意識する事で、
高貴な活動力を発揮できる事を述べているのだ。

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生きとし生けるものの中で、
いずれ死ぬということを自覚しているのは人間だけで、
人間を人間たらしめているのは「死の意識」である。

通常、人は死を恐れて生きているが、
それは死を消滅だと考えているからである。

霊界の話を聞いたり本を読んだりしても、
信じない人は信じないし、
信じている人の多くも心の底からは信じ切れていない。

これは感性の問題でもあるので、
「五感で認識できない事を信じない」
という生き方は決して間違いではないし、
むしろ正しいとも言える。

私もそういうタイプの人間だが、
五感で認識できない世界に興味があった為に、
その世界の探究を続けてきて、
自ら確認した事だけが自分の中での事実となっている。

いずれにしても、死は未知なる体験であり、
死とともに意識が消えると思うから怖いのである。

そうでなければ、
輪廻を解脱する前に死ぬのが恐いのである。

何のために生きているのか、
どこから来てどこへ行くのかが分からず、
自分の我意識を「自分」だと思い、
欲望(煩悩)に支配されて不安という迷宮の森を彷徨う……

これは迷いの世界(幽界)から抜け出せていない状態で、
真我に出会うまでは輪廻を解脱できないということである。

釈迦は内観によって魂を半覚醒させ、
煩悩を滅却して輪廻を脱却することを説いたが、
「ハイパーネオデジタル内観」も同じである。

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人は死を恐れ、忌まわしい問題として避け、
心の奥底に封印している傾向にあるが、よく考えてみてほしい。

人間を人間たらしめているのが「死の意識」なら、
人は死の問題について真剣に向き合わなければならない。

また、死を遠い将来の話として
忘却の彼方に追いやっている人が多いのではないだろうか。

だが、「人間はいつ死ぬか分からない」
ということを忘れてはならない。

それは、今日かも知れないし、明日かも知れない。

それを「マイナス思考だ」とか
「そんな暗い事を考えているとウツ病になる」
と思う人は、何も分かっていない事になる。

我々は死を超越したアセンションを目的としているが、
死という(基本的に)避けて通れない問題を、
深層意識に押し込めて無視することがマイナス思考であり、
ウツ病などの要因の1つになっている可能性もある。

ウツ病も酷くなると自殺に至るケースがあるが、
それは死を恐れているからだと言えば、
さぞ反論が巻き起こるだろう。

だが、本人が自覚していようがいまいが、
潜在意識にないものは顕れないのである。

死について真剣に向き合うということは、
生について真剣に考えるということであり、
死を意識して初めて生が覚醒するのである。

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私も高校時代から常に死と隣り合わせに生きてきた。

闇社会の人に誘拐されたり、殺されそうになったり、
喧嘩で生死を彷徨うような大怪我や、
死んでもおかしくない交通事故もしてきた。

当時は喧嘩による傷害致死事件や殺人事件が
身近で日常的に起きていて、
成人してからもそのような環境に
身を置いていた私は常に死を覚悟し、
命拾いをする度に自分の人生を振り返って
生き方を深く考えたものだ。

私は死の概念すらないはずの2歳の頃から
底知れぬ死の恐怖に取り憑かれていた。

数々の霊体験をし、体外離脱を繰り返す事で
霊界の実在は否定できない事実となったが、
死の恐怖から解放されることはなかった。

その死の恐怖は、魂の半覚醒が起こるまで続いた。

そんな死の恐怖に取り憑かれていた私が、
常に死を覚悟しなければならないような
無謀な生き方をしてきたのは矛盾しているが、
それ故に私はネオデジタル内観に出会う事ができた。

また、もともと繊細だった私は小学校転校後、
学校や家庭の問題で苦しみ、自殺願望も少し持った。

私は今でいうウツ病で不登校になったが、
死の恐怖と自殺願望が心の中で同居していたのだ。

その頃から極度の金縛り体質になり、
毎晩、死を覚悟して眠りに就いたものである。

実際に金縛りで力尽きて体外離脱を何度も経験し、
「死の感覚」は数え切れないほど体験してきたので、
「明日死ぬとしたら」という事をいつも考えていた。

それらの経験がなければ
ネオデジタル内観にも出会わなかっただろうし、
今の私もないので過去のすべての出来事を肯定できる。

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「心の学校」の佐藤康行氏も、同様の事を述べている。

真我を体感・体得する第一の方法は、
死から生を見てみることです。
死から生を見ることによって、
生きる事の尊さ、命の大切さを体感することができる。
そのときに、真我に目覚めることができるのです。
臨死体験をした人には、まれに真我を体感する人がいます。
普通は臨死体験をすることが出来ませんから、
仮に死の視点から自分の生を見直してみるのです。
もし、明日死ぬとなったら、あなたはお金に執着しますか。
人と争いますか。物にこだわりますか。
死ぬ時は何一つ持っていけない。
そして、生きている人たちに、
出来るだけ良い思い出を残そうとするでしょう。
このように、死というものを身近に感じた時、
初めて真我がぐっと浮き彫りになってくるのです。


死から生を見ることを「未来内観」という。

人間は過去から未来という一方向の時間概念で生きているが、
生死の二元性も本質的には一元的なものであり、
その偏りを是正してバランスを良くするためにも、
ハイパーネオデジタル内観では「未来内観」も導入している。

まずは、就寝時に、
「明日、死ぬとしたら、今、何が大切なのか?」
と問いかけることから始めていただきたい。

もちろん、顕在意識で考えて答えを出すことも大切だが、
重要なことは深層意識に問いかけることである。
posted by アンリ・クリスチャン at 19:51| Comment(0) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自己発見の真の意味を問う

『絶対変革』より↓


あなたにとって何が大切ですか

やすらぎと穏やかさに満たされた空間……。
安定がそこにあり、よろこびが感じられる時間……。
そうした時間をあなたは得たいと思うでしょうか。
何事が起きても冷静さを失わない平常心と中道の心……。
しかも迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……。
そうしたさまざまなものを身につけたいと思うでしょうか。

あなたは何が大切で、何が重要なことと思っていますか?
ある特定の人ですか、特定のモノですか?
特定の場所ですか、それとも……?
自分にとって何が大切で、何が重要か考えたことがありますか?

毎日が健康で、楽しく生活できればそれでいいと思っているのではないですか?
まず第一に自分のことについて考え、そして次に家族や友人のことを考えるのではないでしょうか?

いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で、自分の好きなことや楽しいことを考え、そのイメージや目標に向かって進もうとしているのではありませんか?
そのイメージや目標が達成されるかどうかは別にして、たえず自分にとって都合のいいことばかりを考えているのではありませんか?

うれしいことや楽しいことは、できるかぎりたくさんあったほうがいいと思っているのではありませんか?
また、そのほうが幸せだと考えているのではありませんか?
何かうまくいかなかったり、思い通りにならなかったら、イヤな思いをしたり、憂鬱になったりするのではないでしょうか?

そして、体調を崩して病気になったりすると、健康になることを願い、治療法や健康法などいろいろなことを試してみたりするのではありませんか?

人間関係でも、他人に引け目を感じると、そのコンプレックスをなくしたいと思うのではありませんか?
お金儲けができて、望んでいた物質的なものを入手していろいろなことができるようになると、さらに「もっともっと……」と願望を膨らませていくのではないでしょうか?


転載終了

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分割して私の見解を述べたいと思う。

「やすらぎと穏やかさに満たされた空間……。
安定がそこにあり、よろこびが感じられる時間……。
そうした時間をあなたは得たいと思うでしょうか」


半覚醒すると、それは揺るぎないものとなり、
常に至福の状態でいることが出来るようになるが、
これもネオデジタル内観の賜物だと思っている。

「何事が起きても冷静さを失わない平常心と中道の心……。
しかも迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……」


半覚醒すると、他者を自分として見るようになるが、
その自分自身を他者のような感覚で見ている別の視点を獲得する。

つまり、この世が「夢」であることを認識しているため、
映画を観ているような感覚で生きるようになり、
何事が起きても冷静さを失わない平常心となる。

中道の心についても、半覚醒すれば自ずとそのようになるが、
半覚醒に到るまでの生き方の指針として、
「中道の心」とはどのようなものかを学んだ方がよいと思う。

釈迦も半覚醒メソッド(ヴィパッサナー瞑想)を指導すると同時に、
自らが悟った真理を説いていた。

その中に「中道」という概念があるが、
私自身も「ニュートラル思考」というものを学んでいた。

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「迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……」

私は直感型タイプなので、もともと迅速な判断力はあったが、
ネオデジタル内観でも強化されたと思う。

決断力と実行力が調和的かどうかは、
「中道」であるかどうかの問題である。

従って、マクロで見れば調和的であっても、
ミクロで見れば調和的とは限らないこともある。

つまり、中道から離れて両極に位置する人からすると、
調和的ではないと評価されることもあるが、
他者の意見に惑わされずに自分軸がブレなければ問題はない。

中道の心(ニュートラル思考)の獲得とは、
自分軸を中心点に確立することでもある。

また別の例を挙げれば、
「創造」の中には小さな破壊と小さな創造が含まれているが、
その破壊の部分だけを見て「不調和」というのはナンセンスである。

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「あなたは何が大切で、何が重要なことと思っていますか?
ある特定の人ですか、特定のモノですか?
特定の場所ですか、それとも……?
自分にとって何が大切で、何が重要か考えたことがありますか?」


これが今回のタイトルにもなっているも重要なテーマだが、
長くなるので詳細は改めて述べたいと思う。

「毎日が健康で、楽しく生活できれば
それでいいと思っているのではないですか?」


毎日が健康で楽しく生活できればいいに決まっているが、
「それでいい」と思っているなら、
それだけの人生に過ぎないということである。

また、人間として生きている以上は、
時として健康を損なったり、
面白くない出来事に遭遇することもある。

そのような時でも平常心を保ち、
心静かに内観して反省と感謝をすること大切である。

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「まず第一に自分のことについて考え、
そして次に家族や友人のことを考えるのではないでしょうか?」


自分の人生の主人公は自分なので、
第一に自分のことについて考え、
次に家族や友人のことを考えることが悪いわけではないが、
誰もが自らを「自分」と呼んでいることを理解する必要がある。

「いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で、
自分の好きなことや楽しいことを考え、
そのイメージや目標に向かって進もうとしているのではありませんか?
そのイメージや目標が達成されるかどうかは別にして、
自分にとって都合のいいことばかりを考えているのではありませんか?」


世間一般の感覚からすれば、
自分の好きなことや楽しいことを考えることは「良いこと」で、
そのイメージや目標に向かって進むことは美徳だとされる。

これについても一言で語れるものではないが、
いくつかの観点から問題点を指摘しておこう。

好きなことや楽しいことを考えるとアルファ波が出るので、
心身の健康のために良いとして薦める医者もいるようだが、
まず原則として思考や感情が心を汚す原因となる。

それを言ってしまえば実も蓋もないが、
問題はその想像や妄想の中身である。

「いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で」
と前置きがある通り、「好きなことや楽しいこと」が、
自己中心的で不調和な内容ではないかどうかである。

先ほど「自分軸」の話をしたが、
それは一般的にいう「自己中心主義」や「自分本位」ではなく、
「究極の自己中心主義」と呼べるもので、
家族や友人のことは二の次で、自分のことは三の次となる。

だが、それも一面的な見方であって、
一言で全貌を語れるものではなく、
今の段階では理解困難だと思うので話を進めることにしよう。

好きなことや楽しいことのイメージや目標に向かって進むことは、
往々にして「信念体系領域」に囚われ、
欲望や執着の実現を使命であるとさえ信じて疑わない人もいる。

仮に実現して満足したところで、
次の目標に向かって努力することが生き甲斐となり、
いつまでも輪廻の苦悩から抜け出せないということになる。

自我で「やりたい事」と真我で「やりたい事」は違うのか?
という質問がたまにあるが、
自我と真我は意識の方向性が正反対なので基本的に異なる。

もちろん、潜在意識の浄化が進めば、
真我の意識が自我に反映されるようになるが、
それでもやはり基本的には異なるものである。

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「うれしいことや楽しいことは、できるかぎりたくさん
あったほうがいいと思っているのではありませんか?
また、そのほうが幸せだと考えているのではありませんか?
何かうまくいかなかったり、思い通りにならなかったら、
イヤな思いをしたり、憂鬱になったりするのではないでしょうか?」


うれしいことや楽しいことは、
できるかぎりたくさんあったほうがいいし、
そのほうが幸せであることには違いない。

高次元の世界はそのようなものである。

半覚醒すると1人でジッとしていても嬉しくて楽しいし、
常に幸せであることを実感する。

だが、半覚醒しても嬉しくない現象は必ず起こるもので、
うまくいかなかったり、思い通りにならないことは世の常である。

もちろん、潜在意識が浄化されてくると嬉しい出来事が増えたり、
うまくいったり思い通りになることも増えてくるが、
嬉しいことしか起こらないとか、
何でもかんでも思い通りになるということは有り得ない。

だが、極端に喜んだりイヤな思いをしたり、憂鬱になったり、
一喜一憂することなく常に冷静な至福の不動心を保てるようになる。

たまに不愉快に思ったりすることがあっても、
常に魂の意識で客観的に想念を見張っているので、
即座に反省と感謝をすることになる。

また、釈迦が解いた「幸せ」の定義は、
「苦から解放されること」である。

これも多くの人が経験的に分かっているとは思うが、
人間界では苦を体験するからこそ、
喜びや幸せを感じることができるようになっている。

苦悩や苦痛が大きければ大きいほど、
それが解消された時の歓喜や幸福感も大きくなる。

だが、それはまだレベルの低い段階で、
自分が何か気付きを得る為に、
両極に大きくブレた現象と感情を体験するのである。

人類は集合的無意識で繋がっていて、
それを各人の潜在意識が自分の世界に投影しているので、
半覚醒に到達しても人間界的には苦悩は付き物だが、
感情がそれに囚われないようになるということである。

そもそも、人類の多くの魂が救いを求め、
悲痛の叫びを挙げている状態で、
「私は悟ったから幸せいっぱい」という者は偽物である。

もちろん、個人的に幸せいっぱいなことは結構なことだが、
人類が自分の投影であることを認識していれば、
必然的に自己犠牲的になってくるはずである。

また、半覚醒すればカルマを超越するという話があるが、
確かに一面的にはそれはあると思う。

5次元エネルギーで自然にカルマが解消するとか、
因果を超越した時間概念によって、
カルマの法則が作用しないことも考えられるが、
人間界に生きている以上は、
原則としてカルマの法則に従う必要がある。

また、「人類=自分」の感覚からすれば、
「人類のカルマ=自分のカルマ」であり、
個人的なカルマを解消して「私は自由の身」とするのは、
それこそ自分勝手な自己中心主義で、
何も悟れ(差取れ)ていないということになる。

私はクリスチャンではないが、
人類の罪を背負ったイエス・キリストの贖罪精神に共感するし、
それと同じ形態のホ・オポノポノを高く評価しているのである。

誤解のないように述べておくが、
決して「自己犠牲」が良いと言っているわけではない。

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「体調を崩して病気になったりすると、
健康になることを願い、治療法や健康法など
いろいろなことを試してみたりするのではありませんか?」


病気になれば健康を願い、
いろいろな治療法や健康法を試すのは当たり前のことである。

ここで山本健二氏が言っていることは恐らく、
病気の原因となっている内面を見つめることの必要性である。

3次元的に病気の原因は色々とあるだろうが、
3次元の世界はあくまでも投影である。

3次元的にどのような原因があろうとも、
それは「結果の世界」での原因に過ぎない。

それを改善することも大切だが、
「原因の世界」である潜在意識に目を向けて、
内観することが重要なのだ。

内観で心身の病気を克服した人は数知れず存在するが、
心の学校の体験談によると、
全身に転移した末期ガンが短期間で全快したという話がある。

世間ではこれを奇跡と呼ぶが、
病気治癒のメカニズムを理解すれば奇跡でも何でもなく、
当たり前のことだといえる。

もちろん、潜在意識が根本原因とは言えども、
食生活などの改善も大切なことである。

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「人間関係でも、他人に引け目を感じると、
そのコンプレックスをなくしたいと思うのではありませんか?」


外部の物質世界のみに目を向けることは、
悟り(差取り)と正反対の意識の方向性で、
自他分離観念を強くして他者を強く意識し、
他者の言葉や評価に対して過剰に反応したり、
他者を妬んだり、羨んだり、敵対心を持ったり、
あるいは劣等感を感じたりするようになるが、
そのような強固な自我を破壊していくのが内観である。

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「お金儲けができて、望んでいた物質的なものを入手して
いろいろなことができるようになると、
さらに「もっともっと……」と
願望を膨らませていくのではないでしょうか?」


そのような悪循環も内観によって断ち切ることができ、
半覚醒すればそのような幻想に囚われることもなくなる。

ただ、あらゆる欲望の根源は「食」にあり、
食をコントロールすることも必要だが、
食をコントロールできないのも精神面に起因する。

また、食物が性格や精神状態に大きな影響を与え、
あるいは頚椎や脊椎などの歪みや仙骨の振動低下などが、
血液・リンパ液・神経伝達物質・気の流れに障害を起こし、
精神を病ませたり歪ませたりもする。

欲望について言えば、欲望と戦う経験も大切だが、
人間から欲望を根絶することは不可能である。

欲望を浄化・昇華して、
欲望に支配されるのではなく正しく扱うことが、
意識進化の原動力にもなっていると思う。

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いずれにしても、悟ったといわれる人々の話をどれだけ聞いても、
それは単なる知識に過ぎず、自ら悟らなければ何も解決はしない。

また、半覚醒するための方法論を示さなければ、
どれだけ真理を説いても絵に描いた餅に過ぎないのだ。

まずそのことに気付かなければ、自立した意識進化は望めない。

尚、ニュートラル思考を学ぶなら、
「ありがとう仙人の幸せ玉手箱」がお薦めである。
posted by アンリ・クリスチャン at 04:38| Comment(1) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プロローグのまとめ(改訂版)

@真の幸福と理想社会を実現させる原点は、真の自己発見にある。

A俗世間から隔離された環境に身を置くのではなく、日常生活の中で内観することが重要である。

B「ステップアップして何かに到達したい」という思いを切り離し、純粋に「本当の自分を知りたい」という気持ちで内観に取り組む必要がある。

C初級イニシエーションは
「生活の中での一つひとつの気づき」で、
「人は神の子」「愛と奉仕が人間の道」
という真理に一歩一歩目を開いていくこと。

上級イニシエーションは、人生の大きな転機の中で、
「自分を捨てて地球(宇宙)進化のために全面的に献身する」
という決断から始まる。

人はこの決断をするならば、
1つの人生の中で幾段階ものイニシエーションの階段が上れ、
一生涯で釈迦やイエス・キリストに近いところまで上れる。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:00| Comment(2) | プロローグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月28日

「ほんとうのあなた自身」との出会いに向けて

『絶対変革』より↓


その後、「ほんとうの自分」を見つける手だてを多くの人々と続けてきました。
私自身が内観道場を開設するなどいろいろな経緯から、私は二つの大切なポイントを発見しました。
内観については本文に譲りますが、現実からから隔離された場所に身を置き、テーマを与えられて自分を見つめなおす一つの手段です。

第一のポイントは、内観道場で研修された人の多くは、たしかに今まで経験し得なかった心の平安や何らかの閃きを得るのですが、日常生活に戻ればまた昔の自分に戻ってしまうという事実です。
つまるところ、道場で得られる心の平安などは一時的なものに過ぎないのです。
一定の場所に一定期間閉じこもる研修はほとんどの場合、時間の浪費になり、おまけにあまり効果の上がるものではないということです。

ほんとうのことが分かってしまえば、いま自分がいる場所で自分自身を観察することが、「ほんとうの自分自身」に気づくことなのです。
日々の生活の中で成し遂げられる意識変革が真の意識変革なのです。

第二のポイントは、「ステップアップして何かに到達したい」とみなさんが思っているということです。
努力すれば答えが出るという世界です。
ステップアップの世界というものは、第一のステップを間違えると求める方向には進みません。

ですから、第一ステップの第一歩が重要だということです。
その第一ステップの第一歩を誤らせるものが、今までの価値観や先入観です。
自分の内面へ入る時に、今までに獲得している価値観や先入観が邪魔をします。

従来の価値観や先入観に邪魔をさせないためには、そうした価値観や先入観を徹底的に洗い出す必要があります。
しかし、先入観には「先入観とは何か」という先入観があります。
価値観にも「価値観とは何か」という価値観があります。

価値観や先入観を徹底的に洗い出すためには、先入観の先入観、価値観の価値観まで洗い出さなければなりません。
今まで自分が培ってきたものの見方、考え方がほんのわずかでもあれば、その洗い出しは不可能です。

今までに獲得してきたものの見方や考え方を介入させず、しかも価値観や先入観を徹底的に洗い出す作業を可能にしなければなりません。
ものごとを認識するとき、その認識を従来の価値観や先入観と結びつけずにスパッと切る技術が必要になってきます。

これらのことから、自分の内面を観察して「真の気づき」、「ほんとうの自分自身」に到達する内観をデジタル内観と名付けました。
その後、効率性と合理性を求めて研究を重ね、誰にでもできる技術を開発し、現在のネオデジタル内観に至っています。

ネオデジタル内観は、誰にでもできる「ほんとうの自分」を発見する方法です。
あらゆる悩みや苦しみと決別して、人生を楽しみ豊かにする自己変革法です。
では、「ほんとうの自分自身」を見つける旅に出発しましょう。


転載終了

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少年院や刑務所に長期間入っていた人の中には、
仏のようになって出てくる人がたまにいる。

彼らは娑婆世界から隔離され、自分の人生を振り返り、
自分の内面を深く見つめ直して改心した人たちである。

それはまだ悟りとはほど遠いが、
内観が自己改革の基本であることが分かると思う。

私がネオデジタル内観に出会ったとき、
山本健二氏はすでに他界しており、
直接指導を受けることはできなかった。

そして、他の各種メソッドと並行しながら
ネオデジタル内観を実践して深く追求し、
ネオデジタル内観を独自に進化させてきた。

「第一ステップの第一歩が重要」ということだが、
「ステップアップして何かに到達したい」という思いを切り離し、
純粋に「本当の自分を知りたい」という気持ちで取り組む必要がある。

「覚醒したい」とか「アセンションしたい」などの動機は
当然ながら前提としてあり、そのベクトルも必要だが、
囚われてはいけないということである。

これは文字通り、先入観や価値観などで形成されている、
「信念体系領域」と呼ばれる世界である。

幽界(フォーカス23)と天国(フォーカス27)の間に位置する
霊国(フォーカス24〜26)で、そこに囚われた人たちの特徴が、
「なること」を目指して「目標」を持って「努力」することである。

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その領域に囚われている人たちにとっては、
信念が現実なので抜け出すことは容易ではないが、
そこを突破しなければ天国には行けない。

ここでいう天国とは、仏教の六道輪廻でいう「天上道」で、
まだ悟りの世界ではない4次元の輪廻転生地点だが、
天国の意識レベルに到達することが第1ステップである。

幽界から脱却することが第1ステップという人も多いと思うが、
幽界には幽界の信念体系があるので、その信念を破壊する必要がある。

だが、自分が培ってきた信念を「自分」だと思い込み、
必死で手放そうとしない自我の強い人もいる。

従って、価値観や先入観を外して、
ありのままの自分を観察するのが難しいという人は少なくないが、
これは今後のテーマなので今は深く考える必要はない。

むしろ、今までに培ってきたモノの見方や考え方で考察しても、
「ネオデジタル内観」にはならない。

また、私の解説文が読者にとって、
ある種の価値観や先入観になってしまう恐れもあるが、
あくまでも納得して理解を深めてもらう為のものなので、
囚われることなく柔軟な姿勢で読み進めて頂きたいと思う。
posted by アンリ・クリスチャン at 21:30| Comment(0) | プロローグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする