2010年05月14日

世界平和の実現は内観から(By.アンリ)

少し宗教色の濃い話になってしまうが、前項の「学」についてもう少し補足説明しておきたい。

うぬぼれは人間性を下げるという事だったが、うぬぼれとは「慢心」の事である。
聖書によると、神に次ぐ天使長ルシファーは、慢心によって堕天した。
この話はあくまでも寓話だが、慢心が大罪である事を物語っている。
この堕天神話が我々に教えてくれる事は、慢心から嫉妬や怒り、悲しみなど、
様々な魔界的想念が生み出されるという事である。
そして、波長一致の原理(類友の法則)によって、知らず知らずのうちに、
幽界霊に精神や人生を支配されるようになるのだ。

『日月神示』には、次のように示されている。

「取違ひ慢心一等恐いと申してあろが」
「取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ」
「そなたはよく腹をたてるが、腹がたつのは慢心からであるぞ」


その慢心は「自我」の働きから生まれ、自我からは様々な欲望が生み出される。
釈迦やイエスが闘ったサタンの正体は、この「自我」なのだ。
自我意識は左脳の所産であり、知識を詰め込むという作業は左脳を主体として生きることになる。
つまり、「頭でっかち」というのは左脳偏重の事で、知識を詰め込むばかりでは健全な精神を保つことは出来ないのである。

アーリオーンは次のように言っている。

「知識は両刃の剣だ。使いこなせない知識は害になる。
使いこなせた時に知識は、その人特有の知恵となり、その人を助けるだろう。
知識は多ければいい、というものでは無い。
それを使いこなすだけの勇気と努力と根気と、それを取り入れる時の直観力が必要だ」

「自らの心に積もった、澱のような知識の断片をいつまでも手放さないでいると、
真新しい智慧は育たない」


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引き続き、『日月神示』を見てみよう。

「学が勝ちたら従ってやるぞ
「金や学や智では大峠越せんぞ」
「鉄砲や智では悪くするばかりぞ」
「今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ」
「学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ」
「我よしと云ふ悪魔と学が邪魔している事にまだ気づかぬか」
「智出すから、学出すから、我出すから息詰まるのぞ
生れ赤児と申すのは智も学も我も出さん水晶のことぞ」
「学が人間の智恵と思っていると飛んでもない事になるぞ」
「我れが我れががとれたら判ってくるぞ、慢心おそろしいぞ」
「学に囚はれてまだ目覚めん気の毒がウヨウヨ。気の毒ぢゃなあ」
「神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘でりんどまりぞ」
「何うにもならんと知りつつまだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは
申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ」
「人間心すてて仕舞て、智や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず
生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教守ることぞ 」
「学と神の力との大戦ぞ、神国の神の力現わす時が近うなりたぞ」
「何もかも悪の仕組みは判りているぞ、いくらでも攻めて来てござれ、
神には世の本からの神の仕組みしてあるぞ。
学や智恵でまだ神にかなうと思うてか。神にはかなわんぞ」
「戦済みたでもなく、済まぬでもなく、上げも下ろしもならず、
人民の智や学や算盤では、どうとも出来んことになるのが目に見えているのざから、
早う神の申す通り素直に言うこときけと申しているのざぞ」


『日月神示』は、出口王仁三郎が直受した『伊都能売神諭』の続編だとされいているが、
それには次のように示されている。

「邪神界の悪神の頭が昔からの永い陰謀で、学と智慧と金の力とで、
世界中を自由自在に混乱(みだらし)て来て、今度のような大戦争を起こして
世界中の人民を困(くるし)め、人民の心を日増しに悪くいたして
自己の目的を立てようと致し……」


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結論から言えば、智や学は、神に敵対する「悪魔」の道具であり、
世界を混乱させて戦争に導くものなのだ。
智や学は、自我と同じく「左脳」が司っているが、左脳は「体主霊従主義(唯物思考)」、
右脳は「霊主体従主義(唯心思考)」である。
これを神示では、前者を「悪魔」、後者を「神」と呼んでいるのである。
前者を「自我」、後者を「真我(ほんとうの自分)」と言い換えても良い。

そして、前者が生み出したものが「西洋科学文明」で、
後者が生み出したものが「東洋精神文明」だった。
神と悪魔の最終戦争とは、地球規模で見ると「東洋」と「西洋」の衝突なのだ。
ところが、東洋でも智や学が重視され、物質科学を発展させてきた。
前述の「智や学は、神に敵対する悪魔の道具であり、世界を混乱させて戦争に導くもの」
を個人に置き換えて考えてみてもらいたい。
智や学による左脳偏重、自我の増大が自分自身を混乱させ、狂気へ駆り立てるのだ。
「狂気」というと大袈裟に聞こえるかも知れないが、日常生活の中での欲望、不平不満、
慢心、嫉妬、怒り、悲しみ……等の悪想念こそ、戦争以外の何ものでもない。

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ハルマゲドンの原因を、『日月神示』は次のように指摘している。

「戦恐れてゐるが、臣民の戦位、何が怖いのぞ。
それより己の心に巣くうている悪のみたまが怖いぞ」


「戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない。
世界中の洗濯ざから、いらぬものがなくなるまでは、
終わらぬ道理が分からぬか。
臣民同士のいくさでない、カミと神、アカと赤、
ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。
己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」


「人間のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふていたら
大きな間違いざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ。
あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、
早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ。
肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や禍は見当とれまいがな。
世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、
この道理わかりたか」


「世界がそなたに映っているのぞ。世界見て己の心早う改心されよ」

つまり、ハルマゲドンとは自我と真我の衝突であり、それによって胸の岩戸が開け、
真我が目覚める(キリストの再臨)ということなのだ。
だからと言って、左脳(自我・知識)を邪悪なものと敵視するのではなく、
右脳とのバランスが重要なのである。
これは交感神経と副交感神経のバランスに置き換えることもできる。
釈迦はその事を「中道」と呼び、それが「ニュートラル思考」なのだ。
その為に最適な方法がハイパーネオデジタル内観」なのである。

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少し長くなるが、引き続き『日月神示』から抜粋する。

「学や智がいらんと申しても、学や智が要らぬのではないぞ。学や智も要るのざぞ」
「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ」
「悪殺してしまうのではなく、悪改心させて、ミロクの嬉し嬉しの世にするのが神の願いざから、この道理忘れるでないぞ」
「わが身をすてると申すことは我をすてること、学をすてることぢゃ。
すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」
「人の心から悪を取り除かねば神に通じないと教へているが、
それは段階の低い教であるぞ」
「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが」

「悪を悪と見るのが悪」
「悪も御役であるぞ。この道理よく腹に入れて下されよ」
「悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。何故に判らんのか」
「悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ」
「悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、
悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ」
「悪もよいなれど、悪も神の用(ハタラ)きであるなれど、
悪が表に出ること相成らん。
悪を食ふて暮らさなならん時近づいたぞ、悪を噛んで、よく消化し、
浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ、
だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん」

「善のみにては力として進展せず、
無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、
悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、
法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
この行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、
三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」

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「神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊に地上人はこの善悪の均衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、
悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だと思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである」

「人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、
それは段階の低い教であるぞ。
大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが、今迄の教は今迄の教」

「悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。
何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。
悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである」
「悪も元を正せば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりてくるぞ」

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「地上人は絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。
この場合、この平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超大平衡にと進み行くことを弥栄というのである。
左手は右手により生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」

「今日までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、
これが悪魔の御教ぞ。
この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ。
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、
それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、
悪はますます増えるのみ、悪殺すてふそのことが、悪そのものと知らざるや、
神の心は弥栄ぞ。
本来悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八岐大蛇も金毛も、邪鬼も皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななふ所に御力の、輝く時ぞ来るなり、
善いさかへば悪なるぞ」


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釈迦とイエスは瞑想中、悪魔の誘惑を受け、それを撃退して悟りを開いた。
この悪魔というのは「自我」の事であり、悟りとは「真我」に気付く事である。
真我を「魂」と呼び換えても良いが、黒住教祖の黒住宗忠は
それを「天照大神の分魂」であると説いた。
天照大神は太陽神であり、イエス・キリストも太陽神の受肉を名乗った。
天照大神が隠れた「天の岩戸」とは、人間の胸に存在する。
そして悟りを開くと岩戸が開け、天照大神(魂)が光り輝く。
これが「キリストの再臨」の真意であり、仏教では「弥勒下生」という。

イエスはミトラ教の太陽神ミトラに比定され、ミトラ教は初期キリスト教に大きな影響を与えたが、
ミトラは仏教にも取り入れられて「マイトレーヤ」と発音され、弥勒菩薩もミトラを語源としている。
キリストは「救世主」という意味だが、「ミトラ=マイトレーヤ=弥勒」も救世神であり、
呼び名は違えど同一の至高存在を指している。
それが「真我」であり、真我に目覚めた人を仏教では「仏陀」と呼ぶ。
仏陀は真我に目覚めた人であるが故に「キリスト(救世主)」であり、
人間は本質的に誰もがキリストなのだ。

さて、『日月神示』では「悪を取り除くのではなく、
抱き参らせよ」と説かれているが、
釈迦も悟りを開く時に「悪魔」を抱き参らせている。

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世界平和の第一歩は、自らの心の平和と安寧の実現からである。
自我に生きる者が世界平和を唱えるのを「偽キリスト」という。
真我に目覚めぬ者が世界平和を唱えるのは、
戦争仕掛け人が反戦運動をするのと同じようなものである。
posted by アンリ・クリスチャン at 09:36| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

ネオデジタル内観で「コピー人間」だった自分を発見した

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


現実を直視し、「真の気づき」「真の自己発見」を体得するための技術がネオデジタル内観ですが、ネイデジタル内観ではイメージや従来の思考、先入観や価値観が大敵です。
それらに惑わされているかぎりネオデジタル内観は実行できませんし、「ほんとうの自分」を見つけることはできません。
イメージや従来の思考、先入観や価値観といったものは、アナログ思考です。
それに対し、ネオデジタル内観での思考はデジタル思考です。
アナログ思考とデジタル思考については次項で触れることにして、ここでネオデジタル内観を実施して自分を見つめなおした人を紹介しましょう。

その方から次のようなお手紙をいただきました。
「……振り返ってみると私は、本や新聞に囲まれて育ってきました。
両親は、私が外で友達と遊ぶことより、家で本や新聞などを読んだり、
勉強していることを好みました。
家には社会的な問題を取り上げた本や新聞がたくさんありましたが、
私はそういう文章を読みのが好きでした。
日本で育った子供が日本語を話し、アメリカで育った子供が英語を話すように、
私は自然に社会的な問題について話せるようになっていました。
別の言い方をすれば、常に新聞を読み、時事に通じていて、それについて討論できなければ、我が家の一員として認めてもらえないという空気がありました。
たくさんの本を読み、知識を持っていれば、まるで本当にそのことがわかっているかのような気になります。
自分は何一つしていなくても、何かやっている気になります。
知識が多くそれなりのことが喋れれば、まるで立派な人になったような気になります。
そして、多くの人がそれをほめたたえ、先生と呼んで教えを請うたり、頼ったりします。
ある日突然、『私はコピー人間だ』と気づきました。
頭の中にいろんな人の書いた文章が入っていて、必要となればそれらを引っ張り出してきて、組み合わせて、キーワードをちりばめて、それなりの文章を作ってしまいます。
よくできたゴーストライターのソフトみたいです……」


それまでこの方は、「ほんとうの自分の姿がつかめない」、「何を聞いても話しても実感が湧いてこない」という悩みがありました。
しかし、その原因をネオデジタル内観でつかみました。
「コピー人間としての自分」と決別し、「コピー人間の人生」から「ほんとうの自分の人生」へ歩き始めたのです。
自分で書いた文章のつもりでしたが、今思えば、それ本当の自分の文章ではなかったのです。

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このサイトは、山本健二氏の『絶対変換』を丸ごとコピーしたものである。
だが、その「コピー」は全く意味が違う事はお分かり頂けると思う。
私は「神仙組」というブログも書いているが、様々な研究家の仮説の上に成り立つ仮説である。
それは、コピーと言えばコピーだが、結論はオリジナルのものである。
学問というものは常に仮説の上に成り立つものなのだ。
だが、それは自分で書いたものだとは思っていない。

世の中には人の仮説を、言葉を換えて自分のものにする人が多い。
だが、私はそのような事はしないので、引用が多い文章となる。
それは引用している事を公にする事で、説得性を高める事にも繋がっていると思う。
全文を自分の言葉で書く事も可能だが、私は人の功績を自分の手柄には出来ないし、
また、引用なしには説得性に欠けるからだ。このサイトにしてもそうである。
私が自己発見をした経緯を書けば良いだけだが、敢えて『絶対変革』を原典しにした上での参考書のような形態とした。

新しい仮説を生むインスピレーションを得る為には、下地となる「情報」「知識」というものが絶対的に必要となる。
そして、定説や通説に疑問を持ち、様々な分野から多角的に検証し、瞑想中や夢の中でインスピレーションを得たり、ほぼ無意識の状態で執筆を進めている事もある。
だが、その為に、かなり徹底した情報収集や研究をしているのである。

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エレキギター、自動炊飯器、自動湯沸器、自動ドア、CTスキャン、魚群探知機、歯科治療用ドリルなどを発明した、故・政木和三工学博士は、著書『人類を救うヒット商品開発法』の中で次のように述べている。

「当たり前と思っていたことや疑問に思っていたことを、もう一度考え直す習慣が、
新しい発想を生み、ヒントを得て、発明や新製品開発の源になることをしみじみ感じた。
特に私の場合には、あらゆる分野の基礎知識があったことが、発明することには幸いしていると思っている」


「私は現在まで1000件近い発明、開発品を作り出してきた。
なかでも、私が超科学を研究、実験して、自らもこの世界に入るようになってからというもの、私の新製品の発明、開発は10秒間で基本が完成している。
そして、これらは全て、脳波がシータ波になったときの現象である。
ただ、私の場合、若い時から工学部、医学部での勉強を続けてきているので、
発明、開発の受け皿があったためであろうと思っている」


だが、インスピレーションは「与えられたもの」であり、完全なオリジナルは世の中に存在しない。
他人のコピーではない発想や新説も、コピーと言えばコピーなのだ。
政木氏はインスピレーションで得た発明品について、次のような啓示を受けている。

「汝うぬぼれるな。汝の作ったバイオライトは1億年前、別の世界にあったものである。
汝の頭の波動と一億年前の波動が合った為にその設計図が映っただけである」


政木氏はこう言っている。
「人間はうぬぼれると人間性がどーんと下がります」

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『真実のサイババ』(青山圭秀著/三五館)には、次のように書かれている。

「サイババは、学士号(Bachelor's Degree)を略してBAD、
修士号(Master's Degree)」を略してMADと言うことがある。
実際、高学歴になるほど、失われるものも確かにあるように思われる。
もちろん、サイババは教育や学歴そのものを悪いとは言わない。
人格教育こそが、教育だと言い続けているのである。
修士号の上には博士号があり、それこそは、学問の世界における最高の位である。
これについて、サイババは何も言っていないようである。
ところが、この博士号(Doctral Degree)を略すと、DOGになってしまう。
サイババの周りには、真の意味で人格を兼ね備えた博士たちがたくさんいるから、
このたとえは広まっていないのだろうか……」

「私の知る限り、サイババは学歴というものをむやみに否定したりしない。
若者が大志を抱くことも、社会の階段を駆け上がることも否定しない。
そうして、自分の国できちんとした教育を受けることを勧めるような健全さがある。
ただ、多くの国で行われている教育が知識偏重であることについては、
はっきりと苦言を呈するのである。
空の袋にものを詰め、またそれを取り出して空にするという表現は、
過剰な暗記を強いられる日本の生徒たちを連想させる。
われわれは心のどこかで、教育とは頭を訓練し、知識を蓄えるものだと思っている。
教育はまた、将来の生活基盤を確立するためのものだとも、一般に信じられている。
教育には、そうした側面が実際にある。
しかしサイババは、教育は生命のためのものであり、生計を立てる為のものではないというのである」

『もしも、人の受けた教育がハートを耕さず、文化の裏打ちのないものであれば、
彼は最初から教育を受けていない者よりも劣る。
ハートを開き、真我を解き明かすものだけが、教育の名に値する。
真の教育は謙遜の心を与え、そこからあなたの価値が生まれ、霊的な世界だけでなく、この移ろう世界でも幸福を得ることができるのだ』

posted by アンリ・クリスチャン at 04:32| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

考察やイメージでは「ほんとうの自分」は発見できない

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


ここで、一つの実験をしましょう。
「自分は何者だ」
こう自分に問いかけてください。目を閉じても、開けたままでも結構です。
そう問いかけると、脳が働き始めます。
家族や周りの人との付き合い、いままでの自分の思考や行動、そのときどきの自分の態度や相手の振る舞い・・・。
どんどん時間をさかのぼります。
そうしたことから、自分を浮き上がらせようとするはずです。
しかし、それらは蜃気楼のようなものにすぎません。
不確かな記憶やつねに移ろう感情によって映し出される反応という蜃気楼なのです。

よく脳はタンスにたとえられます。
いままでの記憶や感情をまさぐる態度は、脳のタンスの引き出しを開ける行為です。
開けた引き出しの中を覗き、そこに自分を発見しようとしているわけです。
過去の自分の反応のモザイクから自分を浮き彫りにしようとしても、「ほんとうの自分自身」は出てきません。
なぜなら、反応はつねに一定不変のものではないからです。
そのときの自分の環境や置かれている状況など、ほんのわずかなことで反応は大きく違ってしまいます。

いってみれば、イメージから「ほんとうの自分」を描こうとしても、イメージに真実を現わすそのような力はないということです。
しかも人間というものは、「自分かわいさ」という心情を持ちます。
自分にとって都合のいいようにイメージしているものです。
イメージは思考の産物です。
思考は感情をともない、感情はイメージを膨らませ、つまり、思考の世界から一歩も出られなかったことになるのです。
それは「築く」範疇の行為であり、「気づき」からまったくかけ離れたものです。
考察に始まれば考察に終わります。
内観はじつは簡単なことなのですが、その簡単な作業を邪魔するものが思考(感情)であり、先入観や価値観だと知らなければなりません。
その障害を克服する手だてが、熾烈な自己凝視による現実直視の観察なのです。

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考察に始まれば考察に終わるとは、まさに自我で自我を振り返っている状態である。
山本健二氏は、「内観を邪魔するものが思考(感情)であり、先入観や価値観だと知らなければなりません」と述べているが、前項の解説で、私は次のように述べた。
『自我こそが瞑想時に現れる「悪魔」であり、仏教用語で「邪魔」という』

「悪魔=思考(感情)=先入観や価値観=邪魔=自我」

山本氏は「その障害を克服する手だてが、熾烈な自己凝視による現実直視の観察」だというが、それが出来ずに脱落する人が24.1%もいるという事である。
そこで私が強調しているのが、肥田式腹式呼吸法によって脳波をシータ波にする事で、それによって自我が消滅する事を述べてきた。

また、第1章の『「真の気づき」の状態について』の解説で、私は次のように書いておいた。

――リラックスした深い意識状態の時に胸に手を当てて、胸を意識して心の中で問いかけるのである。
「私は誰ですか」と……。
答えは外部からもたらされるものではなく、最初からあなたの内に存在するのである。
私は真理を説いているが、あなたにとっては真理ではない。
何故なら、本当の心理は自分の内部にしか存在しないからである。
答えは自分の中にあるが、それを得る為には「素直」な気持ち、裸の心になる必要がある――


それによってイメージの自分を描いた人もいるかも知れないが、リラックスした深い意識状態、即ちシータ波の状態で「自分は何者か」と問いかけた事は潜在意識に入っており、水面下では確実に「真の自己発見」への道を進んでいるのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:44| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

ネオデジタル内観は徹底的な「自己観察」に始まる

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


ネイデジタル内観は、まず「心を科学する」ことから始まります。
これは、従来の精神世界といわれているいろいろな理論や方法とは、一線をへだてるものです。
真実を知ろうとする人が、いままで非常に困難とされていた思考の変革浄化を短時間で実現するものです。
ですから、「理想は何となくわかるが、実現しない自己変革」とか「独りよがりの悟り」とか、宗教などに見られる「集団の中だけのやすらぎ」などと決別するためのものです。
すべての人が心から求めてやまない「ほんとうの調和とやすらぎの生活」を実現するためのものなのです。

まじめな徹底したネオデジタル内観の実践者は、85%以上が「真の自己変革」を実現します。
従来の内観では「自己変革」実現者は10%未満という結果からすると、驚異的な数字ということがいえます。
その秘密は、じつは簡単なことにあります。
秘密という言葉はどこか宗教的な儀式を連想させますので、「コツ」と表現を変えましょう。
砕いていえば、「秘密なんかありゃしない。コツをつかんでいるかどうかだけだ」ということです。

コツだからこそ、だれにでも「真の自己発見達成」は可能なのです。
そのコツが秘儀や密室的秘策に関するようなことがあれば、私は本を書いたりしません。
「ネオデジタル内観実践法」などという内容を公開しないでしょう。
ネオデジタル内観実践のコツは、徹底的な自己観察にあります。
自己観察の内容は、熾烈な自己凝視による現実直視です。

ここでハッキリ認識しておかなければならないことは、観察と考察(思考)の違いです。
自分の内面を考察しようとしても、内面など見えるわけがありません。
いくら思考を重ねても、内面が浮かび上がってくることはないのです。
それでも必死に神経を使って、「自分とは何か」、「自分はだれだ」と思考を積み重ねていくと、イメージが出てきます。
自分の姿を見い出し、やれ安心というわけです。

しかし、それは「ほんとうの自分」ではありません。
いってみれば、苦しまぎれの自分です。
人間の脳には自衛本能がありますから、とことん突き詰める作業をすれば、ある救いの答えを出そうとします。
その救いの答えが、イメージなのです。

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ネオデジタル内観実践者の85.9%が「真の自己変革」をするというのは確かに驚異的な数字だと言えるが、問題は「24.1%の人が真の自己変革を実現できていない」という事実である。
その内、4%の人は「何らかの事情で内観をやめて、真の意識変革から逸脱する」というもので、残り10.1%の人は「ときおり脱線して独りよがりの考えになる」という事である。

真の自己発見の為に取り組んだ内観を辞めて脱落する原因は、効率が上がらなかったり、邪魔が入ったりするからだと思われる。
ときおり脱線して独りよがりの考えになるのも、自我で自我を観察しているからである。
自我こそが瞑想時に現れる「悪魔」であり、仏教用語で「邪魔」という。
自我で内面を観察しようとしても効率が上がる訳がなく、脱落するのが関の山である。
つまり、4%の人も10.1%の人も、脱落する本質的な原因は同じであり、85.9%以外の人は同じ原因によって「真の自己発見」に失敗しているという事が言える。

その事を理解している私は、「ハイパーネオデジタル内観」によって100%の人が「真の自己変革」を実現できる事を確信している。
また、第2章の最初に書かれていた調査結果によると、70.7%の人が「内観に全く興味がない」というデータが出ていたが、その人たちにも「ハイパーネオデジタル内観」の効果は波及する。
「自分が変われば相手が変わる」、そして「100匹目のサル現象」という理論での意味もあるが、それだけではなく、様々なメソッドやアイテムを利用して人類をアセンションに導くのが「ハイパーネオデジタル内観」が秘める可能性である。
「人類キリスト化計画」というのは机上の空論ではなく、既に実施段階に入っているのだ。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:22| Comment(2) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

まったく新しい内観・ネオデジタル内観への出発

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


短期間で確実に意識変革を実現する技術がネオデジタル内観

いま従来の内観の限界を述べましたが、それでも10〜20パーセントの人は何らかのやすらぎを獲得するようです。
そして残り80%以上の人が、内観道場のリピーターになるわけです。
そうしたリピーターでも、内観がどういうものであるかは頭では理解しています。
「内観とは自分の内面を観察することだ」、「ただひたすら自己の内面に入り、ただひたすら自分の思考をチェックすることから内観は始まる」

こうしたことを、頭では知っています。
しかし、知っていても実行できない現実、どうしても元の自分に戻ってしまう現実がそこにはあります。
何度となく内観道場に通いながら、ほんとうの自分を発見できない堂々めぐりです。
いつまでたっても「真の気づき」に出会えない循環を繰り返すだけです。

人生にリプレーはありません。人生はいつもライブです。
この一瞬一瞬の現実が人生というものです。
そのかけがえのない人生を、「偽りのやすらぎ」「偽りの安定」でごまかしてい
れば、人生すべてが偽りになってしまいます。
調和とやすらぎに満たされたほんとうの人生は、「ほんとうの自分自身」を知らなければ実現されません。
そのためには、いま生活している場所で、自分の内面の観察から始める必要があるのです。

従来の内観の堂々めぐりを解消する内観が、ネオデジタル内観です。
ネオデジタル内観は、いま自分が生活している場所で実践でき、自力で「真の気づき」「真の自己発見」が可能になる内観です。
ネオデジタル内観は、従来の内観の欠点を理解したうえで、それらに修正を加えるとともに、現代人にもっとも適した情報処理技術をプラスした内観です。
さらに、従来は「心」とか「魂」とかいわれていたものを科学的に解明し、短時間で確実に意識変革を実現する技術でもあります。
思考の迷路に入り込まない内観、「真の気づき」、「真の自己発見」を体得する内観、しかも、元の木阿弥に陥らない内観がネオデジタル内観なのです。

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この記事に関しては特に解説する必要はないと思うが、ネオデジタル内観がいかに革新的な内観法であるかがお分かり頂けると思う。

posted by アンリ・クリスチャン at 19:45| Comment(4) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月04日

従来の内観はここに問題があった

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


内観道場経験者になぜリピーターが多いのか。
この問題は、従来の内観の限界を端的に物語っています。
いわゆる内観道場での内観体験は、「疑似内観」とでもいうべきものなのです。
指導者がいる一定の場所が用意され、そこへ指導を受けにくる人がいるという関係では、ほんとうの内観にはなりません。
環境や場所が設定され、そこを訪ねてテーマに従って内観をおこなっても、「真の気づき」には到達できないのです。

先に、「内観道場への参加にも、それなりに癒される効果はある」と述べました。
しかし、その癒しは、癒しの場所に行って癒されるという感じです。
その癒しはほんとうの癒しでもなければ、ほんとうのやすらぎでもありません。
だから、日常にまみれているうちに、再び内観道場に行きたくなってしまうのです。

わかりやすく表現すれば、休暇を取って温泉に行ったようなものです。
静かで景色のいい場所に行き、日頃は食べないようなおいしいものを食べ、いろいろなサービスを受ける。
だれでも少し贅沢な気分になり、ストレスが解消されるでしょう。
しかし、休暇が終わり、元の生活にもどった途端、またストレスの渦に巻き込まれます。
温泉での体験は、結局、現実からの逃避に過ぎなかったことになります。
その人は、温泉での快適さを思い出すたびに、「温泉に行きたい」と思いつづけます。
同じように、たとえほんものではなくても、内観道場でひとときのくつろぎを経験した人は、「また道場に行きたい」と思います。
そこに行けば、「くつろぎ」が得られるからです。

内観道場側からいえば、何度も通ってくれたほうがビジネスになりますが、ほんとうの内観はビジネスではありません。
ほんとうの内観とは、日々の生活の中でただひたすら自己の内面に入り、ただひたすら自分の思考をチェックすることから始まります。
そして、形になってしまっている思考パターンを把握し、その内容を外に出し、再確認し、不調和な面は消去することなのです。
不調和な面を消去するとは、思考パターンを変えるか、あるいはニュートラルにするかの作業になります。

ほんとうの内観は、いま自分が生活している場所で行わなければなりません。
「どこか静かで落ち着ける場所に行って内観をしたい」と思うこと自体が欲望の思考であり、逃避の思考であるということに気づかなければならないのです。

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釈迦は王子としての生活から逃避して、妻子を捨てて出家したが、それは仕方がない事だった。
現代でこそ書籍やインターネットで様々な情報を得る事が出来るが、釈迦の場合は出家してヨーガ行者を訪ねるより他に道がなかったのである。
もし、釈迦が腹式呼吸法や内観法を知る事が出来たなら、出家せずに王子として悟りを開く事も出来であろう。
だが、釈迦の場合は「王子」という地位や名誉を捨てる事に意味があった。

出口直や王仁三郎も、極貧生活の中で真理を会得した。
直や王仁三郎のようにもともと貧困ならまだ良いが、自らの意志とは言え、何不自由のない生活から乞食同然の隠遁生活を始めた釈迦の心には強烈な葛藤があったはずだ。
それについて、釈迦を偉人だと思うかも知れないが、釈迦は好き好んで出家した訳ではない。
貧しい人々を見て心が痛み、自分の裕福な生活に堪えきれなくなったのだ。
そこに強烈な葛藤が生まれ、「本当の自分」の意志に従わざるを得なくなったのである。
それによって、釈迦は王子としての生活からの逃避を余儀なくされたのだ。

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かく言う私自身もお金や夜の街が好きだが、自分の性格や生活スタイルが世間(現代の社会システム)に合わない為、世俗から離れた隠遁生活を夢見ていた。
しかし、結果的に世俗的から離れずに、煩わしい社会生活と複雑な人間関係の中で、「極貧」という形で修行の場が与えられる事になった。
それは金銭や物質的な執着をなくし、環境や状況に感情を左右されずに調和する修行だった。
社会から逃避すれば、執着をなくすのも調和をとるのも簡単である。
世俗から離れれば、意識進化は容易だからだ。
私が社会からの逃避を許されなかったのは、「社会変革」という使命があるからだと思っている。

内観で有名な「心の学校」の佐藤康行氏も、著書『一瞬で運命を変える魔法のスイッチ』の中で同様の事を述べている。

「精神世界を探求する人には、山にこもったり、滝行をしたり、断食をしたり、長期の座禅を組んだりします。
しかし、真我を開くには、町の中にいて、ふつうの生活をしながら行なうほうが、より効果的です。
なぜなら真我の開発は、人に伝えていくことを重要視するからです。
「浮き世に流されていては、本当の修業ができない」という人がいますが、一般社会の厳しい人間関係の中で自分の魂を磨いてこそ、本物の修業といえるのではないでしょうか。
それに真我の開発では、何も特別な人間になるのではなく、本当の自分に目覚めて、人々が暮らす社会で役立つ人間になるのが目標なのです。
現実に使えない修業など意味がない。
山にこもったりの修業はしばしば人間離れして、現実に使えないことが多いものです」

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私が敬愛する一休さんも、その事を悟っていた。
一向に良くならない世の中に嫌気が差して山籠もりをし、
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座禅に耽っていたが、山を下りて都の人々と一緒に暮らすことが、
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自分の生きる道だと悟ったのだった。
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須藤アキオ氏の『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』には、次のように書かれている。

――オウム真理教などに代表される修行者たちも、当初は真面目に「生」と「死」を捉えようとした求道者だろう。
しかし、それは同時に社会からの逃避者であることを意味してもいるようで、オウム真理教崩壊後も社会復帰できない人が多いとの報道もあった。
人間は社会的な仮面(ペルソナ)を被り、無意識にある「自己」の意識における顕現「自我」を歪めることもあるが、この社会からの逃避は、自らが押し込めた反面「影(シャドウ)」を克服しなかったということである。
そこに本当の悟りがあるのだろうか。
意識(理性)を統御する自我は円満清朗でなければならないものである。
この自我の主体性と統一性を欠いた修行者たちは、盲目的に愚かな行為に加担したではないか。
人によって魂(心)には一種の癖あるいは個性がある。
心理学的にいえば、自我が被る仮面(ペルソナ)やコンプレックスである。
個々の潔斎法は困難、しかも糸口は千差万別、百人百様だが、では、個々の癖はいったいどのように現れるのか。
これを古神道と占星学との不可思議な相似を糸口にして、ユング心理学をもとに考えていこうと思っている――


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魂の癖とは「カルマの原因となる思考パターン」の事で、その潔斎法は困難だという。
『日月神示』にも次のように示されている。

「たれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ、
その癖を直して行くのが、皮むくことぢゃ。改心ぢゃ。弥栄行くことぢゃ」

「そなたのもつ悪いくせ直して下されよ。
それが御神業ぢゃ、神々様も自分のくせを直すために御苦労なさっているのぞ」

「悪いくせ直さねばいつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変わらんぞ。
無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。
直せば直しただけ外へひびくものがかわって来るぞ。よくなってくるぞ。
わかって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ、よくなってくるぞ。
幸となるぞ。よろこび満ち満つぞ。神みちみちて天国ぢゃ。
一歩づつ進め。一歩づつ絶えず進めよ。それより外に道はないのぢゃ。
人間生れかわっても死にかわっても、中々悪いくせは直らんもんぢゃぞ。
それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ」


努力次第というのは、意識的に悪い癖を直すという意味ではない。
意識して悪い癖を直す努力が如何に無駄な事かは、多くの人が経験しているはずだ。
まず、自分の悪い癖を知る必要があるが、それが内観による「思考パターンの認識」である。
それをデジタル思考で修正していく作業が「ネオデジタル内観」なのだ。

「少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ」というのは間違いではないが、そのような漠然とした話をされても、具体的な方法論の提示がなければ何をすれば良いのか分からない。
そこで、このサイトを開設した事の意義は大きいと思う。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:00| Comment(4) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

先入観や価値観をニュートラルにするのが内観

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


生きている限り、人間には「自分を守る」という自己保存の欲求があります。
それを根底から取り去ることは出来ませんが、内観では、どこに偏ったものの見方があり、どこにとらわれているかなどを徹底的に調べます。
そして不調和なものの見方や、歪んだ思考パターンを修正し、今まで持っていた先入観や価値観をニュートラルにしていきます。
ニュートラルとは、自己主張がまったくないことです。
早くいえば、どこにも偏りのない状態です。

偏りのない状態でものごとを観察し、現実を直視すれば、すべての出来事が起こるべくして起こっていることに気づきます。
「すべての現象のもとは自分自身の中にあった」と体得できるのです。
その体得した状態が「真の気づき」であり、「真の自己発見」なのです。
ところで、内観の歴史は古いのですが、最近の内観は、内観道場とか内観研修所など静かな場所に一定期間閉じ込もり、自分を見つめるということが多いようです。
そこで、両親をはじめ、兄弟、親族、友人、隣近所など、いままでお世話になったことがらを思い出し、お世話になったことに対してお返しができたかどうかを調べていきます。
調べていくうちに、何もお返しができていなかった自分に気づきはじめ、申し訳なかったという気持ちと感謝の気持ちが高まってくるというものです。

別の表現をすれば、記憶の糸をズルズルとたぐっていき、そこで得られた感謝やよろこび、感動を記憶の最先端である「いま」にフィードバックするわけです。
それがいわゆる内観というものです。
元来、私たちはいろいろな人たちや環境によって生かされているわけですから、その事実がわかって感謝の気持ちが高まれば高まるほど、何の不平不満もなく、そして心の葛藤もなく、日々やすらぎの生活ができるはずです。

しかし、プロローグでも述べたように、私自身が内観道場を運営していたときも、また、現在内観道場を開設している方のお話を聞いてみても、道場のリピーター(再来者)は多いようです。
お世話になったお返しができていないことに気づき、感謝の気持ちで生活できるようになったはずの人が、また道場へ戻ってくるのです。
内観道場で内観を実施すると、一時的にはやすらぎと幸福感を手にできるかも知れません。
たとえば、「毎日のわずらわしい仕事や家庭から離れ、日頃のストレスを解消したい」という逃避的願望からの内観参加であっても、それなりに癒やされる効果はあります。

しかし、日常生活に戻れば、そこには雑多な事象があり、また元の生活パターンに戻ってしまいます。
そしてまた、日常生活に不安や恐怖を感じ、道場の門を叩くことになってしまうのです。
なぜ、道場へ戻ってくるのでしょうか。
なぜ、安定した生活が実現されないのでしょうか。
そこに、いままでの内観の問題点があるのです。

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自己保存欲は動物の基本的本能だが、過剰な自己保存欲は弊害となる。
まず、その原因を知る必要があるが、私はネオデジタル内観によって次の事を悟った。

自己保存の観念を強くしているのは不安や恐怖の感情である。
また、傷心から自分を守る為に、悲しみを怒りに変えて闘争と破壊の衝動を増幅する。
その自己保存の観念から自他分離の意識が生まれ、それが際限のない欲望を生み、様々な不調和を起こす。
不安や恐怖、悲しみや苦しみから逃避したり、或いはそれを認めたくない為に深層意識にマイナス感情を押し込める事で根深いカルマとなり、同じような悲劇や不幸を繰り返して生きていかなければならない。

「すべての現象のもとは自分自身の中にあったと体得できる」というのは、そういう事である。
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」も同義だが、日月神示にも次のように示されている。

「外にあるもの内にあるぞ」
「自分の中にあるから近寄って来るのであるぞ。
厭なこと起こって来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ」
「世界がそなたに映っているのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ」


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また、「すべての出来事が起こるべくして起こっていることに気づく」という通り、自分の性格(思考・行動パターン)を形成した環境や経験も、最初から人生の筋書きがあった可能性がある。
「運命は決まっている」「人生はアミダくじ」という感じたが、この話は別の機会に詳述する。

脳は状況に反応する為、脳のシステムによって人それぞれ反応が違う。
その思考パターンや行動パターンが、「性格」と呼ばれるものである。
それは環境や経験によって形成される部分が大きく、自覚(自己認識)によって修正可能だ。
それを修正しない限り、人は「心構え」などでは絶対に変わらない。
ハイパーネオデジタル内観は、「思考パターン」を変える最強の絶対変革法である。
そして、思考が変われば「行動パターン」が変わり、その結果、「運命」も変わるのである。

「感謝の気持ちが高まれば高まるほど、何の不平不満もなく、そして心の葛藤もなく、日々やすらぎの生活ができる」の部分に関しては、就寝前の「感謝の対象を拡げる祈り」を続けると良い。
「すべての現象のもとは自分自身の中にある」という事は、この感謝の祈りによって、感謝するような出来事が次々に起こるようになる。

五日市剛氏は、その時に「感謝します」と言葉に出すとポジティブ・カルマを生み、人生が好転すると教えている。
また、難が有った時は「有り難う御座います」と言うと、不幸の連鎖(ネガティブ・カルマ)が断ち切れるという。
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私がネオデジタル内観に出会う数ヶ月前、「ありがとう仙人の玉手箱」というメルマガに出会った。
そのメルマガを読む事で「ニュートラル(中道)思考」を身に付けていったのだが、それがネオデジタル内観に非常に役立ったと思っている。
http://plaza.rakuten.co.jp/newtral343/

前項で若山敏弘氏の話をしたが、ついでに若山氏が開発した「シルバーレイ」を紹介しておく。
これは心身の邪気を抜いて自律神経を正常にする効果があり、内観をする上で非常に役立つ。
また、理論的にはネガティブ・カルマの解消にもなる。
http://www.fushigikenkyujo.com/bloGoods/cat4/cat16/post_78.asp

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環境工学博士の石川弌士氏も、著書『幸せと成功を手に入れる方法』の中で、邪気を抜かなければプラス思考も逆効果になり、邪気を持ったままでは正しい心の持ち方や正常な思考も出来ないと述べている。
内観によって邪気を抜く事が可能だが、邪気を抜いてから内観をした方が遥かに効率が良い事は説明するまでもないだろう。
石川氏の言う邪気とは、心の汚れと体の汚れを指し、それをクリーニングする事で幸せと成功が得られると説いている。

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マンモステレビや電光ニュース等を発明した橋本健氏は、BGMとして流すだけで潜在意識を浄化する方法として、「成功と幸福のための言葉」というカセットテープ(CD)を制作している。
橋本氏は生長の家を信仰している為、その教義(光明思想)が色濃く反映された内容になっているが、いわゆる宗教教義のすり込みではなく、潜在意識を浄化する効果がある。

政木和三氏は「インスピレーションを妨げているのが先入観・欲望・マイナス思考」だと述べているが、橋本氏のテープは通称「インスピレーションテープ」と呼ばれており、先入観・欲望・マイナス思考なども取り払う効果があることを裏付けている。
http://www.alphacoil.com/inspilat.htm
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先入観・欲望・マイナス思考も「邪気」だが、邪気を抜く事はネガティブ・カルマの解消でもある。
カルマは自分の人生の幸不幸を左右するだけではなく、来世や子孫にも影響し、更には人類全体のカルマでもある。
人間が輪廻を繰り返すのは、「ネガティブ・カルマの解消」だと言っても過言ではない。
そのネガティブ・カルマを解消する方法が「内観」なのだが、様々な方法でネガティブ・カルマの解消を図ると、内観もスムーズに出来るようになる。

「ネガティブ・カルマの解消」という目的で、最も簡単な方法が「キングダム・オブ・ハピネス」というDVDを観る事で、これも集中して観る必要はなく、部屋に流しておくだけで良いので非常に有り難いアイテムである。
内観道場に行こうと思えば、1回で数十万円の費用が掛かるが、私がお薦めするアイテムは半永久的に使用可能で、ネオデジタル内観自体は自宅で無料で実践できる。
もちろん、推奨アイテムは必須ではなく、あくまでもネオデジタル内観をサポートするものであり、必要性を感じたらチョイスするというスタンスで良い。
http://www.eiichihojiro.jp/healingdvd/item/DVD_01_hapiness.html
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posted by アンリ・クリスチャン at 20:26| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

「内観」を知っていますか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


内観に「欲望」行きのキップはない

「内観」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
じつは、内観を説明しようとすると数冊の本でも説明しきれません。
ここでは、理解しやすいように簡単な説明にとどめます。
それでも、内観のポイントだけはお分かりいただけると思います。
内観とは、読んで字の通り、「内面を観察すること」です。

「観」という言葉には「明らかにみる、察する、ものごとを分別処理する能力」といった意味があります。
また、「つかむ、おがむ」といった意味も含まれています。
したがって、内観とは自らの意思で自分の心(思考)の中を探索し、「自分とは何かを発見すること、つかむこと」になります。
ただし、その「発見」「つかみ」は肉眼の認識ではありません。
もとより、自分の内面を肉眼で見ようとしても不可能ですが、肉眼を使わないために「内見」とは言いません。

かつて私は、一般の人々を対象にある調査を実施したことがありました。
一般の方々に、「内観に関心がありますか、必要だと思いますか」と聞いてみたのです。
その結果、「まったく関心がない」人が70.7%、「少しは関心がある」人が19.2%、「内観は必要だと思う」人が10.1%でした。
この数字をどう判断するかはここでは触れませんが、内観を始める人は少なくありません。

その動機は各人まちまちですが、「コンプレックスを解消したい」とか「精神的、あるいは肉体的苦痛を取り除きたい」といった現世利益的な欲求から実行する人が多いようです。
最近では、精神修養の一つの手段としてグループ内観に積極的に参加する企業も増加しています。
ただし、「コンプレックスを解消したい」とか「精神的、あるいは肉体的苦痛を取り除きたい」、あるいは「ストレスを感じない人間になりたい」とか「健康になりたい」といった欲求から内観を始めても、その欲望は満たされません。

内観の目的は、「真の気づき」、「ほんとうの自分」を発見することであり、そこには「欲望行き」のキップはないのです。
内観を実施した結果として、ストレスとか病気などにとらわれない自分に変革することはあります。
しかし、それは調和した自分を内観で実現した結果であり、欲望充足を内観の目的とした場合はその結果を得ることは絶対にありません。
欲望が調和への道を閉ざしてしまうからです。

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釈迦は、悟りを開く為に欲望をなくす修行から始めた。
そして、煩悩(欲望)を滅却して輪廻を解脱する事を説いた。
逆に言うと、欲望を持っている限り悟る事は出来ない。
「悟」とは吾の心と書くが、要は「本当の自分=真我」を知るという意味である。

「精神的・肉体的苦痛を取り除きたい」「ストレスを感じない人間になりたい」「健康になりたい」という願望なら、「肥田式腹式呼吸法」や「水飲み健康法」などで実現可能である。
「欲望をなくす」というと難しく感じるかも知れないが、「内観」と「願望実現」は切り離して考えなければならないという事である。

人間は誰しも理想(欲望)があり、それを捨てて生きていくとなれば、あまりにも味気ない人生だと思う事だろう。
だが、内観をして「真の自己発見」をすると、潜在意識が自己実現に向けて働き始め、理想は勝手に成就していくので何も心配は要らない。

問題は、欲望に支配されている日常の精神状態だが、「真の自己発見」の為に欲望を一度手放す事である。
有り難い事に、肥田式腹式呼吸で脳波をシータ波にすると思考が停止状態となり、左脳の産物である「欲望」が消滅するのである。

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工学博士の故・政木和三氏は、『人類を救うヒット商品開発法』の中で、自らの腹式呼吸法の体験を述べている。

――私は幼いときから胃腸が弱く、「青びょうたん」などといわれていた。
それに少々吃音で、それが引っ込み思案な子にしていた。
小学校に上がるころ、町の診療所の医師から、腹式呼吸法というのを教えてもらった。
その医師は漢方を研究していて、いまでは気功の中にある腹式呼吸法を知っていたのだ。
最初のころは7秒間で息をゆっくり吸い、それを下腹部に押し込み、おなかがふくれるようにして7秒間止めて、それからゆっくり7秒間で吐き出すという方法であった。
こうした訓練を毎日、一時間続けていると、二年後には20秒間を吸い、20秒間止め、20秒間で吐き出す、1分間で一呼吸できるようにまでなっていった。
それを真っ暗な部屋で毎日続けたのである。
すると、一年くらい経るころには、腹式呼吸をした後、部屋の中がぽっと明るくなることが分かった。
こうした状態を自然にできるようになったのである。
そして10歳の時である。
母親が寺から受けた日蓮宗のお経の本を仏壇に置いて、毎日開いていた。
隣に座っていた私は、何気なくお経の本を見ていると、どうしたわけか一巻のお経の意味が頭に浮かび、それを母親に語って聞かせたというのだ。
「あの時、お前のお経の説明で私にもお経の意味が分かって、とてもありがたかったよ」
母が90歳で亡くなる前に、私にそう告げたのだった。
そこで、母が亡くなった後、その遺品からその古いお経の本を探し出し、開いてみたが漢文調の難しい文字は、何が書いてあるかまるで分からない。
どうして、あの当時の私にこんな難しいお経の意味が分かったのであろうか。
それは、後日、人間と脳波が研究されていき、私も脳波の研究をしていくうちに、実はその時の脳波の状態は、シータ波にまで達していたのであろうことが解明されたのだ。
つまり、腹式呼吸法を長い間、熱心に集中したことで、いまでいう「気」が高まり、気功でいう「真気」にまで達したために生じたのであろう。
「人間万事塞翁が馬」という。
もし私が健康であり、腹式呼吸法など知らずにやっていなければ、あんな現象が起きることもなく、脳波を研究していても、ただそれだけで終わっていたであろう――


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私も幼少期に虚弱体質だったからこそ、健康について研究を重ねてきた。
もし私がもともと健康だったら、人類をアセンションに導く超健康法など考えもしなかったと思う。
また、10代〜20代の間、荒んだ人生を歩んでいなければ、内観などに興味を持つ事はなかったかも知れない。
成功哲学のナポレオン・ヒルは「逆境にはそれと同等かそれ以上の価値がある」と教えている。
つまり、どんな境遇にも感謝する気持ちが大切なのだ。
また、ナポレオン・ヒルも「柔軟な考え方、言い換えれば素直さが必要である」と述べている。

『日月神示』には次のように示されている。

「延ばせば延ばせば、人民まだまだ苦しいことになるぞ。
延ばさねば助かる人民ないし、少しは神の心も察して下されよ。
言うこときいて“素直”に致されよ」

「戦済みたでもなく、済まぬでもなく、上げも下ろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうとも出来んことになるのが目の前に見えているのざから、早う神の申す通り“素直”に言うこときけと申しているのざぞ」


私の言葉で言えば、「絶対平和の黄金時代を迎える為に素直な心で内観せよ」という事になる。
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イエスは、このように言っている。
「はっきり言っておく。
子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」


子供のように固定観念のない純粋で素直な心にならないと、神の国に入れないという事である。
神の国が何処にあるかと言うと、イエスは「汝の胸の中にある」と明確に語っている。

引き続き、『日月神示』を見てみよう。

「洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、知恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教守ることぞ」

「早う神の申すことよく聞いて、生まれ赤子の心になりて神の容れ物になりてくれよ。
一人改心すれば千人助かるのぞ」


話を戻すが、「肥田式腹式呼吸法」は簡単にシータ波状態に到達する方法である。
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政木博士は、シータ波について次のように述べている。

――発想力、インスピレーション、創造力を妨げているのが、私たちにまとわりついている「先入観」「欲望」「マイナス思考」の3つが大きな要素としてあると思っている――

まず、先入観について政木氏はこのように述べている。

――私の場合、脳波をシータ波にすることで、先入観など入り込む余地はどこにもない。
ノーベル賞を受賞した物理学者の利根川進博士は、ある講演で「常識を疑うこと」、そして、「人と異なったことをするのに違和感を持つな」という、つまり「先入観を持たないことを説いている――


私はもともと常識を疑う性格で、人と異なる生き方をしてきたので先入観が少なかった。
次に、欲望について政木氏はこう語る。

――人間には限りない「欲望」というものがある。
「欲に目がくらむ」といわれるように、欲望を持っていたのでは、それにかられて創造性などは生まれてこない。
ただ、「目先の欲望を捨てると不可能はなくなる」といっても、なにもしないで怠けていればよいということではない。
私のいう「この世に不可能はない」というのは、目先の欲望にはじまり、すべての我欲を忘れ去ったときに、人間の本来の潜在能力、精神エネルギーが発揮できる状態になるということである。
自分の欲望がほんの少しでもあれば、決して「不可能は可能にならない」のだ。
私は完全に欲望を捨て去ったとき、さまざまな発明のインスピレーションがわき、その上、後ほどふれるが、物理的にはありえない超常現象が自分の眼前に発生している。
欲望を捨て去るのも、脳波をシータ波にして、全てを一度、無の状態にすることである――


また、脳波をシータ波にする事で、「先入観」や「欲望」が消滅するだけではなく、悲観的・否定的な「マイナス思考」も自動的に消滅する。
感情と呼吸は密接に関連しており、怒っている時や泣いている時は荒くて浅い吸いの呼吸になる。
逆に、笑っている時やリラックスしている時は、腹からの深い吐きの呼吸になる。
つまり、感情が呼吸に影響を与えているという事なのだが、逆に呼吸によって感情をコントロールする事も出来るのである。

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森田健氏は著書『ハンドルを手放せ』の中で、体外離脱の世界で観音様の姿をした霊との対話の内容を記している。

「地球の輪廻転生を終えた者よ、待ちなさい」
「私は輪廻を終えたわけではありません。あなたはどなたですか?」
「私はいくつもの惑星での輪廻を卒業した。もうすべてを知り尽くしてしまった。
私に残された役目は指導するだけである。何か聞きたいことはないか」
「人はどこから来て、どこに行くのでしょうか?」
「成長するのが目的だ。子供が大人になり次第に分別をつけていくように、何度も輪廻を繰り返して成長するのだ」
「分別をつけるとは、どういうことでしょうか」
「自分で自分をコントロールするということだ。
すべての感情に縛られてはいけない。常に自分を客観的に見て、マイナスな感情には影響されないようにすることだ」


脳波をシータ波にすれば「先入観」「欲望」「マイナス思考」に囚われなくなる事が分かったが、我々は普段、ベータ波という脳波で生活をしている。

そこでお薦めするのが「シータリング」である。
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今の私はシータリングがなくても、ほぼ完全に感情をコントロールできるようになっている。
それは、「真の自己発見」をして平和と安寧を手に入れたからである。
それによって、日常的に穏やかでリラックスした深い呼吸になり、アルファ波が優勢の生活をしているからだ。
それは、どんな状況であっても殆ど変わらない。
デジタル思考で自分を客観的に見る習慣が出来ている事も大きく関係していると思う。

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尚、肥田式腹式呼吸法は胃腸を丈夫にする効果も大きいが、それ自体もマイナス感情に影響されない体質作りでもある。
手技療法家の若山敏弘氏は、著書『邪気よさらば』の中で次のように述べている。

「私は毎日の治療を通して、内臓器を弱らせると、さまざまな否定的な感情が生まれるものであると、確信をもつようになりました。
最低限、胃や腸だけでも丈夫にしておくことです。
それができれば、そう簡単にはストレスなどには負けません。
胃や小腸や大腸が弱ってくると、お腹にしこり、もつれが出現して、手で触ることができます。
もつれ、しこりを持つ人はネガティブ感情でいっぱいです」

posted by アンリ・クリスチャン at 03:48| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月09日

第1章のまとめ

このサイトは『絶対変革』の参考書のつもりで始めたが、逆に難しくてしまったかも知れない。
だが、真理というものは単純でシンプルである。
恐らく釈迦の教えもシンプルだったはずだが、それが弟子や後世の高僧によって体系化され、悟りとはほど遠い学問となってしまった。

このサイトはそうならないように気を付けているつもりだが、要点は「まとめ」であり、難しく考える必要は全くない。
神泉組2は古今東西の聖典の結集であり、釈迦やイエスの悟りの神髄であり、「究極のアセンション・バイブル」であるとさえ思っている。


@死を意識する事で、生命の重さや使命を知り、正しい生き方を心がける事が出来る。
就寝時に「肥田式腹式呼吸法」をして「明日、死ぬとしたら、今、何が大切なのか?」と問いかけることから始める。

A何のために生きているのか、どこから来てどこへ行くのかが分からず、自分の我意識を「自分」だと思い、欲望に支配され、不安感や恐怖感に襲われるのは、幽界から抜け出せていない状態で、「本当の自分」に出会うまでは輪廻を解脱できない。

Bあなた方の価値観や先入観、固定観念、既成概念などは
家族や友人、教育や社会などに洗脳されてきた結果である。
気づいた人から「神泉組1・2」を実践することで、
あなた方(人類)は真の救いを得ることが出来る。

C宗教や精神世界の教義や教理、知識の積み重ねでわかった「自分自身」はイメージの世界、空想の世界での「自分自身」であり、心(感情)によってつくり出された蜃気楼のようなものである。
内観(自己観察)をする時は、信仰している宗教の教義や特定の哲学や思想を切り離さなければならない。
それらに囚われている限り、モンロー研究所で言うところのフォーカス23(囚われ領域)、フォーカス24〜25(信念体系領域)から抜け出すことは出来ない。

D魂は何回もの転生で、霊界の暗闇の中を迷い続けることが、どんなに苦しいか知っている為、悪業を持って死ぬことの恐怖や不安を、心のフィルターを通して常に私たちに伝えている。
「本当の自分」に出会った瞬間に、人は死の恐怖を超越する事が出来る。

E死に直面したとき(体力は切れかかって思考力も切れる寸前)、本当の自分を発見する人がいる。
肥田式丹田呼吸法は、それと同じような状態(絶対安静と思考停止)を作り出す事が出来る。

F本当の自分を発見すると、自分を取り巻くすべてのことがらやあらゆるモノから執着が取れ、それらがすべて感謝に変わる。
そこで予め、日々あらゆる事に感謝する習慣をつけるのが近道である。
感情を込めなくても「ありがとう」を言い続ければ良いと説く人もいるが、言霊は想いと一致した時に大きな力を発揮する為、感情のない100回の「ありがとう」よりも、気持ちのこもった1回の「ありがとう」の方が大きなパワーを持っている。
就寝前に「肥田式腹式呼吸法」をして、「明日、死ぬとしたら何が大切か」を考える時に、生命に感謝し、親、先祖に感謝し、空気、布団など、感謝の対象を拡げていく訓練をすると良い。
尚、神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわない。

G人は生まれてくる前に、「使命」を決めて生まれてくると言われているが、それ以前に万民に与えられた課題が「真の気づき」「真の自己発見」、即ち「内観」である。
「本当の自分」を知らなければ使命を知る由もなく、「本当の自分」を知ることが最優先であり、この世に生を受けた「第1の目的」はそこにあると言っても過言ではない。
何よりも先に「ほんとうの自分を知らなければ始まらない」という決意をする。

Hまた、不幸があって落ち込んでいる時などに、無意識に自分を見つめなおして、何らかの気づきを得たことがある人も多いだろう。
その時、「因果律」を自覚した人も少なくないはずである。
その「気づき」を与えてくれているのは、他ならぬ「本当の自分」である。
「本当の自分」は、遠く離れた世界に存在するのではなく、あなたの心の中に「実在」している。
「本当のあなた」もあなたに気づいてもらうべく、常にあなたに呼びかけているのだが、それに気づく為には、価値観や先入観という「観念」を破壊しなければならない。
体験や観念から築き上げたものの中に「真の気づき」はない。

I真の気づきは、「私は意識だ」という認識だが、「意識とは何か」を悟らなければならない。
「意識とは何か……本物の自分とは何か……」
眠りに就く前に、本当の自分に問い掛ける習慣をつけると、その真剣さに応じた回答が必ず得られる。

【ポイント】
1.何よりも先に「本当の自分を知らなければ始まらない」と決意する。
2.なるべく北を頭に「肥田式腹式呼吸法」をし、深い意識状態にする。
3.胸を意識して、次のように問いかけて眠りに就く。
「明日、死ぬとしたら何が大切なのか?」
「意識とは何か……本物の自分とは何か……」
4.自分の肉体と生命、親、先祖に感謝し、感謝の対象を拡げていく。

・普段から水をこまめに摂取して、血液を浄化するように努める。
・骨格の矯正や脳に酸素を送る為に「快快」をお薦めする。
・金銭的に余裕があれば、六次元の図を部屋に飾るのも良い。
posted by アンリ・クリスチャン at 09:06| Comment(5) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月05日

「真の気づき」の状態について

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


その「気づき」の状態ですが、山田さんと石川さんと佐藤さんの「気づき」が違うということはありません。
「真の気づき」というものは、「私は意識だ」という認識になります。
と同時に、肉体を持った自分自身という存在、そしていままで体験してきたいろいろな事象を含めた自分の個性というものを確立します。
個性とは、生きているこの空間の中での自分の役割というか、自分のポジションです。
個性の確立とは、そのポジションが鮮明になるということです。

それが神とか仏、あるいは歴史上の人物であるなどということも絶対にありません。
「私の前世はイエスであった」とか「私は仏陀の生まれ変わりだ」というような人がいますが、そのように思い込んでいる人は世界に数え切れないほどいます。
だから、その人たちの言葉を信じて特定の組織に入ってしまうなどということは愚かなことです。

私たちが存在するこの宇宙空間(地球)では、調和することがもっとも重要なことです。
調和とはそれぞれの役割分担があり、それを行うことから実現するものです。
これは人間だけでなく、すべての存在を含みます。
たとえば、植物には赤い花の咲くものもあれば、黄色い花、青い花の咲くものがあります。
また、花をつけない植物もあります。そしてバランスがとれているのです。

雑木林にはいろいろな植物があり、いろいろな昆虫や微生物がいて調和しています。
雑木林の中に入れば、誰でも心が和み気持ちが良くなります。
それは、あなたが雑木林の調和と同調するからです。
あなたもまた、雑木林の調和を構成する一因だからです。

宗教やいろいろな精神世界の教えの中には、「悟り」とか、「解脱」とか、「空」とか、「宇宙即我」とかの表現がたくさん出てきます。
これは、どこかむつかしそうで、それでいて何となく魅力のある表現のようです。
しかし、それらはすべて私たちの頭脳の領域を出ないものです。
思考の中から発生してきたものです。
考え抜いて枝葉を整え、ある形を持たせたものにすぎません。
「真の気づき」は、思考の中からは生まれてきません。
いくら頭をひねっても、つくり出せるものではないのです。

自分の思考を介さずに現実を直視し、いま何をすべきかが理解でき、そして調和の世界実現に向かって行動すること。
それが何よりのよろこびとなる「真の気づき」こそ、魅力のあるものではないでしょうか。
その「真の気づき」の最短コースが、この本で紹介するネオデジタル内観なのです。

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真の気づきは、「私は意識だ」という認識だという。
私は腹式呼吸で初めて思考が停止した時に、その感覚を体験する事が出来た。
日本初のヨーガ行者である中村天風は、ヒマラヤで修業している時、聖者カリアッパに次のように問い詰められたという。

「今日は頭が痛いので休ませて頂きます」
「頭が痛いのは分かったが、何故お前は休むのか」
「頭が痛いからです」
「お前は頭なのか」
「私は頭ではありません」
「では、お前は何だ」
「私は……」
「よく考えて来い」


数日後、天風は自分が何かを悟った。
「私は心です」
「では、心とは何だ」
「よく分かりません……」
「お前はよく分からない存在なのか」
「…………。」


天風が心について考え続けていると、枯木の枝に葉が吹き始めている事に気が付いた。
辺りを見回すと山全体が春の生命の息吹に包まれていて、それを見た天風は悟った。
「この大自然の精気の中には、人間の生命と同じものが遍在している。
我は気なり、活力なり」


天風は、大自然に気(心・意識)が遍満している事を悟ったのである。
即ち、森羅万象を司るエネルギー(神)と、人間の心に活力を与えている存在は同じものだと感じたのだ。

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知花敏彦氏もヒマラヤで修業して悟りを開いた覚者だが、講話特集の小冊子『意識とは何か』の中に次のように記されている。

――あなた方は「意識」という言葉をよく使います。
ですが、その意識というものが何であるかが解らない人が多いのです。
では、意識とは、一体何を意味するのでしょうか。
あなた方には意識があります。
しかし、自分が意識しておりながら、その意識に対する理解が、非常に欠けているのではないでしょうか。
例えば、表面意識だとか、内面意識だとか、神意識だとか、或いは様々な肉体意識だとか、自己的意識だとか、そのように言葉では言いますが、その意識という意味が、本当に解っているだろうかということです。
その意識という、本当の意味を知らなければならないのです。
それが解らなければ、あなた方は何も知ったことにはならないのです。
このままでは、あなた方は自分の一生を、無意味な人生で終わらせてしまうことになるのです――


――意識とは何か……。そして、本物の自分とは……。
それを知ることは、本当の自分を、真の我を知ることになります。
それを自らに問い求めることです。それは適切な問いであるからです。
そして、その意識という、本当の意味を知ることが出来て、幸せと喜びと平安との中に、あなた方が久遠に留まることが出来ますようにと、それを成し得られますことを願わずにはおれません――


――意識は宇宙に幾つあると思いますか。
唯一無二の意識と言って、一なる宇宙意識しか存在しないのです。
それを人間が勝手に、個人意識とか、肉体意識とか、自我意識とか、そういうものがあるように、錯覚してしまっているのです――


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山田さんと石川さんと佐藤さんの「気づき」が違うということがないように、天風と知花氏の悟りも同一のものである。
理論的な事は「意識=素粒子」で述べた通り、肉体や物質を構成しているのは素粒子だが、それは常に循環して波(波動)に還元している。
宇宙は素粒子の集合体で、換言すれば意識そのもの、波動そのものであり、それが人間の意識でもあるのだが、決して「固有」のものではないという事である。

私は幼少の頃から常に過去を振り返り、「自分は一体何者なのか?」「何の目的で生まれてきたのか?」という事を追究してきた。
そして天人合一を体験した時に、「私は誰でもない」「私は個人にして宇宙全体(神)である」という境地に至った。
「個人にして」というのは、宇宙との合一を体感しつつ、今まで通りの自分の意識が存在していたからである。

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不思議研究所の森田健氏も、中国での仙人修業で6次元世界を体験し、「個を保ったまま天とつながり、自由の極みへ」と表現している。
個を保ったままだが、いわゆる自我が消滅して全体と融合している為、「私は特定の誰でもない」という認識があるのだ。

森田健氏はフォーカス27で、パルテノン神殿のような施設の地下の階段を降りてドアをノックした。
すると、ドアが「あなたは誰ですか?」と聞いてきて、名前やプロフィールを言ったが、ドアは認めてくれなかったという。
そして、ヒントを貰って何度目かの挑戦で「私は誰でもありません」と答えると、ドアが開いて光に満ち溢れた世界に進めたという。

もりけん氏は次のように述べている。

「私は誰でもありません」という日本語を英語に直すと「I am not anyone」となります。
これをさらに日本語に直すと「私は、他の誰でもない、私です」となります。
つまり私は他の誰でもないというもう一つの意味は、私は宇宙でたった一人の、かけがえのない私であるという意味にもなります。
私やあなたは、全宇宙に匹敵する価値を持った存在なのです。
さて、「私は誰でもありません」という日本語は、もう一つの英語の表現に直すことができます。
「I am nobody」です。noとbodyを切り離せば「私は肉体のない存在です」となります。


「肉体のない存在=意識」という事である。

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1992年、彗星探索家の木内鶴彦氏が、世界中の天文台が探していたスウィフト・タットル彗星を発見した。
この彗星は2126年8月14日、日本時間10時35分頃にインド洋あたりに落下すると予測され、スティーブン・スピルバーグに依頼して映画『ディープ・インパクト』が完成した。

それはともかく、木内氏は臨死体験で未来の世界を見てきている。
それは、荒れ果てた廃墟と緑豊かな自然が重なっているというもので、木内氏は、人類がどのような生き方を選択するかによって、どちらかの未来になる事を暗示していると解釈し、地球環境を整える活動を精力的に展開している。
興味深い事に、木内氏は臨死体験の際、天人合一(宇宙即我)の境地を体験している。

『人類で後にも先にもこれを体験した人間は私1人ではないかと思っています。
というのは、この世を含め総てのモトというべき「全体、一つ」の意識と、木内鶴彦という「個」の意識を同時に体験したからです。
2つの意識を持つという事はちょっとないことですよね?
自分と自分以外の意識が、2ついっぺんにある状態。
ちょっと不思議な体験ですね。
「全体、一つ」とは、宇宙を創ったおおもとの意識で、総ての自分が介在しているような、それ全体が宇宙を包むエネルギーそのもののようなもの。
まさに意識そのもの、という感じです。
そして、真っ暗な総てだったんです。
木内鶴彦という個でありながら、「全体、一つ」の意識もあるという状態は有り得ない状態です。
なぜなら「全体、一つ」の意識はとっても大きくて、「個」の意識はすぐに吸収されてまた「一つ」に戻ろうとするからです。
だから木内鶴彦という「個」の意識を保つのはとても大変でした。
それでも私は自分でなくなってしまうのに抵抗を感じたので、個であり続けようとしたら、「個」と「全体、一つ」を同時に体験しているような感じで進んでいきました』


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木内氏と同様の体験は、少なくとも森田健氏と私が体験しているし、脳波がシータ波になれば誰にでも体験可能な事である。
長々と説明してきたが、それらを自らの心で悟らなければ全く意味がない。

「意識とは何か……本物の自分とは何か……」
眠りに就く前に、本当の自分に問い掛ける習慣をつけると、その真剣さに応じた回答が必ず得られるはずだ。
私は北を頭にして胸で手を組み、般若心経の手ぬぐいを顔に掛けて寝ている。
まるで死人だが、それには理由がある。

【北枕と「蘇生の森・枕」と膝立て睡眠法】
http://japan666.seesaa.net/article/123108573.html

般若心経は「色即是空」、目に見える物と見えない物が同じ素粒子(波動)であるという真理を説いたお経である。
その悟りは、「本当の自分」を悟ることと全く同じである。
般若心経が宗派を問わずに唱えられている理由は、それだけ重要なお経だという事である。
右脳開発で有名な七田眞氏によると、般若心経を唱えると様々な素晴らしい効果があるという。

天風は「我は気なり、活力なり」と言っているが、気は骨格が正常でないとスムーズに流れない。
地球の磁力線も同じであり、骨格の矯正とも無関係とは言えない。
また、活力(力)は「血から」とアーリオーンは教えており、血液を濁らせない為に生水を飲む事を勧めている。

【神霊学的見地から見た「水」の重要性】
http://japan666.seesaa.net/article/145736076.html

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また、私は頭の上に不思議研究所の「六次元の図」を置いて寝ている。
私は図形の研究もしているが、この影響も無関係ではないかも知れない。
http://www.fushigikenkyujo.com/bloGoods/cat4/cat11/post_80.asp

また、知花敏彦氏を師とする波動研究家の岡田達雄氏は、3色の光を頭頂部で交差するように放射し、心身のバランスをとって活性化させるランプを開発している。
六次元の図は8種類に色が変化するので、それと同じような効果もあるかも知れない。

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尚、意識の正体が素粒子であれば、細胞も意識の集合体である。
それはバクスターの実験で、植物にも意識が存在する事が確認されている。
また、当然ながら人体の各臓器にも意識があり、臓器移植の手術を受けた人が、その臓器の持ち主だった人の記憶や食の好みを受け継ぐという現象がある。

で、心臓は文字通り、「心」の中心的な所在地ではないかと思われる。
事実、心の状態と心臓の動きは連動しており、喜怒哀楽も頭脳の直接的な働きではなく、胸で感じるものである。
「ドキドキする」「ワクワクする」「胸がジーンとする」「胸が痛む」という表現も、心臓と心の関係を端的に表している。
ハートマークが心臓である通り、英語でも心臓と心は共に「ハート」である。

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私が小学校時代に傾倒していた霊能者の隈本確氏は、みぞおちの約5センチ上の箇所に魂が宿っていると主張していた。
心臓は左胸にあると思っている人が多いが、実際には胸のほぼ中心に位置している。
隈本確氏の神霊術は、胸の想念界(大霊界・大宇宙)を意識して行うのだが、私は胸を意識して瞑想してきたのが良かったのかも知れない。
知花敏彦氏も「神は中心に宿る原理」を理論的に解説しており、心や魂は胸の位置に存在すると主張している。

肥田式腹式呼吸法で思考を停止させる理由は、左脳を黙らせて雑念を消した時に、宇宙意識に通じる道が開けるからである。
尚、瞬時に骨格を矯正し、脳に酸素を供給し、宇宙意識に繋がるというマウスピース「快快」を、私はお薦めしている。

【宇宙意識と繋がる奇跡の「整体名人・快快」】
http://japan666.seesaa.net/article/125274452.html

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リラックスした深い意識状態の時に胸に手を当てて、胸を意識して心の中で問いかけるのである。
「私は誰ですか」と……。
答えは外部からもたらされるものではなく、最初からあなたの内に存在するのである。
私は真理を説いているが、あなたにとっては真理ではない。
何故なら、本当の心理は自分の内部にしか存在しないからである。
答えは自分の中にあるが、それを得る為には「素直」な気持ち、裸の心になる必要がある。

明日、死ぬとしたら何が大切か……。
自分が何かを知ることが何よりも大切である。
あなたは誰ですか?
posted by アンリ・クリスチャン at 02:36| Comment(5) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする