2010年09月12日

◆チェック6 思い込みや感覚的なことから判断しがちと思うか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【人間は生物であるが、機械の一つでもある。
機械を否定したり、機械文明を否定するような考えや思想は、
生きることを否定する混乱の思想である。
ネオデジタル内観の実践はどちらかというと、人間を機械と見立ててその実態に迫ることで、
いろいろな不明点や疑問点を解明していくものである。
これは、あやふやな思い込みによる幸福感などとは違い、
鮮烈な「真の調和とやすらぎの生活」の最短コースとなるものである】


機械はまったく同じ反応を何度でも繰り返します。
しかし、人間は同じようなことを繰り返そうとしても、すぐにいろいろなことを考えてコロコロ変わります。
「コロコロ変わるから心というのだ」という話もあります。
人間を機械に見立てても同じような反応をしませんから少々困りますが、できるだけ機械的な営みのところだけを見て、その反応を調べ、パターンを変えなければなりません。
人間の思考はコロコロ変わりますが、コロコロ変わるパターンというものがあります。
それを見届ける作業も、ネオデジタル内観の一つです。
変化するパターンは周期的にきます。
たとえば、感情の起伏の場合、一定の時期になると怒りっぽくなるというようなことがあります。
それから、環境の変化、湿度や温度の変化などによっても、人間の思考パターンには周期的な変化が見られます。
たとえば、カラッとして、暑くもなく寒くもなく、とくに雨上がりのスカッと晴れた天気のときなど、だれでも気持ちがいいと思うものです。
しかし、雨がしとしと降り続く梅雨のようなときは、多くの人が憂うつな感じになります。
多くの人は、外側の現象をどうしても感覚的にとらえてしまいがちです。
そうした感覚的なもののとらえ方を超えてしまわなければ、ネオデジタル内観を極めることはできないのですが、超える前に、「どうしてこんなふうに気持ちが変わるのだろう」ということを調べます。
そうすると、一定周期で変わっているということがわかってきます。

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人間の思考は機械のようにはいかず、常に変化するが、それを観察する作業も内観の一つである。
環境や天候によっても人間の感情が左右されるのは、自分の外側の現象を捉えているからだ。
そうした感覚を超えることが必要だが、その前に「何故、気持ちが変化するのか」を観察すると、周期的に変化していることに気付く。

『日月神示』には次のように示されている。

「物の文明、あしざまに申す宗教は滅びる。文明も神の働きから生まれたものぢゃ」
「文明なくせんと申してあろうが、文明残してカスだけ無にいたすのぢゃ」
「今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ」
「汽車あれば汽車に乗れよ、飛行機あれば飛行機に乗れよ
歩いたり、馬で行くのでは間に合はんことになってゐるぞ」


ネオデジタル内観も「パソコン」という文明利器を使用し、ハイパーネオデジタル内観では更に様々な文明利器を活用する。
科学や物質文明を否定することは、体主霊従主義(悪)を否定する事である。
換言すれば、左脳や交感神経を否定している事になる。
重要な事は、「物質文明」と「精神文明」の統合(前項でいう「物質」と「意識」の統合)である。
それは「体主霊従」と「霊主体従」の統合であり、左脳と右脳の統合、交感神経と副交感神経のバランスと言い換えても良い。

禅僧やヨガ行者が何十年もの座禅や瞑想の末に到達する悟りの境地も、ヘミシンクで左脳と右脳を統合して覚醒シータ波にする事で容易に体験できる時代である。
その他、科学の発達による様々な文明なくして、理想世界の基礎は築けないのである。
コロコロ変わるから心…その事については機を改めて書くが、ハイパーネオデジタル内観をすると心がコロコロ変わる事はなくなり、常に一定になってくる。
当然ながら、天気で気分が左右されるという事は殆どなくなり、災難に遭っても冷静に対処でき、尚且つ本心でポジティブに受け止める事が出来るようになる。
感情に左右されず、デジタル的且つ客観的に物事を分析できるようになると同時に、自然体でニュートラル(中道)思考、究極のプラス思考となるのである。
これは「輪廻」を卒業する為にも非常に重要な事で、「内観を知っていますか」の解説でも述べた通りである。
http://world888.seesaa.net/article/148374760.html
posted by アンリ・クリスチャン at 02:19| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

◆チェック5 意識と物質について見直す

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【意識と物質の融合された世界が、調和の世界である。
どれほど素晴らしそうな言葉や理屈を並べても、意識だけ、
あるいは物質だけを取り扱うことは調和とはほど遠く、混乱の世界をつくり出す】


いままでのチェックとは少し違っているようですが、じつはたいへん重要な項目です。
「意識と物質の融合された世界」という表現は、なかなか理解しにくいかもしれません。
しかし、「融合された」というより、意識と物質はもともと一つであり、それを感覚的にとらえられるかどうかというだけのことです。
たとえば、棒磁石を考えてください。棒磁石の両極にはN極とS極があります。
次にその棒磁石の真ん中を折ってみても、二つの棒磁石のそれぞれにN極とS極ができます。
どんなに短くしても、紙のように薄くしても、N極とS極はできます。
つまるところ、どこまでがN極でどこからがS極とはいえないのです。
N極は意識、S極は物質のようなもので、N極とS極は一つなのですが視点を変えると二つになり、とらえ方によっては裏と表があるのです。
精神世界にどっぷりつかっている人たちは、物質的なものを否定しがちです。
反対に、物質主義的な人は精神的なものを軽視したがります。
もともとは一つであるのに、「そちらはダメ」とか「こちらはダメ」という人たちが多いのです。
ネオデジタル内観をおこなうには、そうした態度と無縁になる必要があります。
物質に偏ることなく、また精神的なものに偏ることなく、バランスが取れていなければなりません。

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物質に偏ることを「体主霊従」、精神的なものに偏ることを「霊主体従」と言う。
便宜的に、前者を「悪」、後者を「善」と表現される事が多いが、「悪」を抱き参らせた善悪統合が究極の真理である。
即ち、「霊主体従」と「体主霊従」を融合させた「霊体一致」である。
宗教や精神世界の人は物質を軽視し(霊主体従主義)、唯物論者は精神性を軽視する(体主霊従主義)が、磁石のN極とS極を分離できないように、「霊体一致」の真理を知る必要がある。

『日月神示』には次のように示されている。

「今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違いであるぞ」
「マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリ致して居らうがな。霊と肉のまつり第一」
「世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。
合わせ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ」


出口王仁三郎は次のように口述している。

「精神上の迷信に根ざす宗教は云ふも更、物質的の迷信に根ざせる科学を焼き尽し」

厳密に言えば、山本氏の言う通り「融合されたというより意識と物質はもともと一つ」である。
物質を構成する最小単位の究極粒子は「素粒子」である。
万物は素粒子によって形成されていると同時に、真空にも充満している。
故に、宇宙は素粒子の集合体という事になるが、最先端の量子力学では「素粒子の正体は意識である」という事が解明されつつある。
つまり、「物質=意識」であり「肉体=意識」なのだ。

「世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。
合わせ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ」

(日月神示)

動物や植物ばかりか、鉱物や機械ともテレパシーで会話できる人が少なくないが、総てが「意識」であり、波動(素粒子の振動)で伝わっている事を考えると不思議ではない。
日本では古来より、「万物に霊が宿っている」という考え方(アニミズム)があり、山や川、岩や草木などの大自然を崇拝してきた。
宿っているというよりも「もともと一体のもの」であり、その事を『日月神示』はこのように説明している。

「木にも草にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿っているのである。
人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿っているのである。
宿っていると云うよりは霊と体とで一つのものが出来上がっているのである。
一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。
数字にも文字にもそれぞれの霊が宿って居り、それぞれの用をしているのであるぞ」

「故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実はないのであるぞ」


スウェデンボルグが、霊界と人間界の関係を「コインの裏表の関係」だと表現した通りである。
本当の外側は内側にあり、内面に入っていく事は精神世界の探求ではなく「霊体一致」の真理を会得する方法なのだ。
チェック4も含めて、内観はどこまでもニュートラル(中道)思考でなければならない。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:37| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

◆チェック4 宗教団体に入っているか、入っていればその理由は何か

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【思想や宗教団体、あるいは精神世界などの組織に所属している人は、
ネオデジタル内観はできない。
どんな理由であってもそれは思考の大きな偏りであり、
その思考の偏りをまず修正しなければならない】


組織というものは、どんなものであれ個人の集まりです。
思想を扱うような組織であれば、偏りのないものの見方はまず絶対にできません。
つまるところ、ネオデジタル内観はできないことになります。
ネオデジタル内観は中道的なところから出発し、中道で終わります。
何かに固執したり、偏ったりしている人が、ネオデジタル内観の最終点である
「真の気づき」「真の自己発見」ができるはずがありません。
「組織には属しているが、私は偏っていない。
組織のイベントには参加しないし、特別な活動もいっさいしていません」
こういう人がいますが、では、その人はなぜその組織に所属しているのでしょうか。
「義理人情的なしがらみがあり辞められない」は、理由にはなりません。
組織の中にいて、偏っていないということはありません。
もちろん、普通の企業のような組織はこれに当てはまりませんし、組織から抜けることが生命をおびやかすことになるとか、家庭のなかでそうしたつながりを持たなければ人間関係が極端にまずくなるという場合であれば、思考の偏りの修正は可能です。
それは、「諦める」という方法です。
諦めてしまって、「自分はこういうふうに鎖につながれているんだ。真意はこうではないんだ」という強固な信念で内観に励めばいいのです。
要は、思考の枠組みを外すことが重要です。
たとえば、鎖でつながれてがんじがらめになって身動きできなくても、気持ちがそこになければよいということです。
とにかく、思考のとらわれを外して自由になっていくことが内観ですから、最初からとらわれていたらどうしようもないということです。

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肥田式強健術の創始者・肥田春充は『宇宙倫理の書』という難解な宗教的科学書を書き残したが、宗教は国民を奴隷にするものだとして猛烈に批判した。
人々を盲信させ、自らの無限力を否定するような宗教がはびこっては、日本は滅びてしまうと言って、新興宗教を徹底的に攻撃したのである。

「私は天下の大無頼漢である。悪党の巨魁である。
けれども天下の生神どもは、私の足元に踏みにじってやる。
悪党に踏みつけられるような神様じゃ、致仕方あるまいな」


大本の聖師・出口王仁三郎は、自らの教団を政府に弾圧させる事で「宗教破壊」の型示しをし、次のように語っている。

「もうこれからは宗教のない世の中になるんや。
しやから神殿なんて必要ない。 石でも積んで拝んどいたらええ」

「わしはなあ、この世でまず仏教を滅ぼす型をやるのや。
それがいろいろな宗教を滅ぼす型になるんや。
宗教というものがないのが、ほんま素晴らしい世の中になるんや」



『日月神示』には次のように示されている。

「教派や教義に囚われるのは邪の教え、早く卒業してくれよ」

「宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ。仕事が宗教ぢゃ。小さいことから始めよ」

「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。形式に囚われなくなるぞ。
真の信仰に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。
今に岩戸ひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ」

「教派や教義に囚われるは邪の教。豚に真珠となるなよ」

「地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思うもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。
うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ」

「死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。
奇跡を見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。
それのみで道を説いてはならんぞ。
そんなこと位でマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。
今迄のような宗教は滅びると申してあろうが」

「戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思うであろうなれど、
戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、
戒律する宗教は亡びると申してあろうが」

「歓喜に裁きない如く、神には裁きなし。
裁き説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ。
戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん。
裁きを説くのは自分で自分を裁いていること、人民に罪なし」

「今度は末代動かぬ世にするのざから、今迄の様な宗教や教えの集団にしてはならんぞ、
人を集めるばかりが能ではないぞ、人も集めねばならず、六ヶ敷い道ぞ。
縁ある人は早く集めて呉れよ。
縁なき人いくら集めても何もならんぞ、縁ある人を見分けて呉れよ。
人間一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちにこの神示よく読んでいて呉れよ」

「何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ、今の様は何事ぞ」

「キリスト教の取次さん、仏教の取次さん、今の内に改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気付かんのか」

「日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。
今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ」

「仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあらう」

「方便ではどうにもならん。 ぎりぎりの世となっているのぞ
方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みだのざぞ、
いまでも仏の世と思うているとびっくりがでるぞ」

「そなたはまだ方便をつかっているが、方便の世はすんでいるのぞ。
方便の世とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ、仏教もキリスト教も回教もみな方便ぢゃ。
教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となっているのぞ、道でなくてはならん。
変わらぬ太道でなくてはならんぞ。
方便の世はすんでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終わるぞと知らしてあろうが。

「化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。
教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ」

「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申しているが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。
これまでは方便と申して逃げられたが、も早逃げること出来ないぞ」

「七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ。
七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな」

「宗教によるもののみ天国に行くと考えるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思うもの、
皆悪の眷族ばかり、迷うなよ、迷うは慾からぢゃ。体験のみ財産ぞ」

「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ」

「信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ、この仕組み知らさなならず、
知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ」

「この神示読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、しかし無理に引張って呉れるなよ。
この神は信者集めて喜ぶような神でないぞ、世界中の民みな信者ぞ、
それで教会のようなことするなと申すのぞ。
世界中大洗濯する神ざから、小さいこと思うていると見当とれんことになるぞ」



宗教というのは宗教法人に限らず、宗教的な教えや倫理・道徳を説く社団法人なども含まれる。
「宗教ではない」と主張する団体や、法人格のない宗教的・哲学的な織も、思想の組織であれば同じことである。
私は義理と調和の為に、やむを得ず某宗教団体に入会しているが、全く関与していないので問題ない。
同じく、義理で入会だけして、組織の人間と一切関わっていないという人は問題ない。
ネオデジタル内観で「本当の自分=内在神」を発見すれば、宗教の必要性はなくなるのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:20| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月08日

◆チェック3 あらゆる教えは混乱の元だと思うか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【思想や宗教などの教えや考え方は、どのようなものであっても混乱をともなう。
思想や宗教には教える者と教わる者があり、どちらも正しいことをしていると思っている。
正しさを主張することは調和からまったく外れたことで、
主張と主張がぶつかり合い、そこから争いや混乱が生じる。
思想や宗教が多くなればなるほど、世の中が混乱することを知らなければならない】


思想や宗教をビジネス展開している人たちは論外として、すべての思想や宗教は正しいと信じる自己主張から始まり、最終的には個人の考えが集まったものです。
それがまとまったものが組織であり、その組織を支配する人、または指導者はその正しいと思うところを主張します。
しかし、世の中にどれくらいの教えがあるのでしょうか。
ある主張に賛同しない人は、組織の外に必ずいますから、主張と主張がぶつかり合って混乱が生じ、それが闘争や破壊を誘発します。
ですから、宗教や思想、あるいはどれほど立派そうなことをいっていても、自己主張(組織主張)する人が多くなればなるほど、世の中が混乱するという事実を認めないわけにはいきません。
歴史を振り返ってみても、これは明らかな事実です。
社会の混乱や環境の破壊、戦争などは、すべてそうした思想の混乱から起こっています。

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これはSTEP2の延長なので詳しい解説は必要ないと思うが、本物の教えは本当の自分である真我(魂)から得るものである。
その為の「ハイパーネオデジタル内観」であることを忘れないで頂きたい。
釈迦やイエスは悟りを開いた後に教えを説いたが、教えはあくまで教えであって悟りとは全く違う。
教えは「知識」であり、悟りは「体験」である。

老子は次のように語っている。
「道が語りうるものであるとすれば、それは不変の道ではない。
もしそれが語られるものなら、人はみな兄弟たちに語っていたであろう」


故に、タオイストは理性や論理に強い不信を持っている。
仏教から生まれた「禅」もタオイズムの影響を受け、「言葉なし、説明なし、指示なし、知識なし」という体験主義で、「ある事について語った途端、見当外れになる」とされている。
仏教では体験による知識を「般若」と呼び、それは「あるがまま」の至高体験であり、この究極のリアリティは言葉や概念では適切な表現が不可能である。

「そこには目も届かず、言葉も心も辿り着けない。どうしたらそれを教えられるか」
(『ウパニシャッド』)

合理主義の物理学者ハイゼンベルクも、このように述べている。
「その言葉や概念が、いかに明白に見えようとも、限られた範囲しか適用できない」
「言葉の問題は誠に深刻である。
どうにかして原子の構造について語りたいと思うのだが、通常の言葉では原子の世界を語ることは不可能だ」


仏教学者の鈴木大拙は次のように述べている。
「仏教的な体験が仏教哲学の基盤であります。
悟りの体験の意味を探る弁証法がいかに発達しても、仏教は根源的には経験論的もしくは体験主義的なものなのです」

「言葉を本源から超越する内的な体験を伝達するためには、言葉を使わざるを得ないので、ここに理解しがたい矛盾が生ずるのです」

政治・宗教評論家の赤間剛氏は、次のように述べている。
「東洋の神秘思想が知識を経験によって裏づける点は、科学が実際によって裏づけるのに類似している。
この思考は『観る』こととして知られる。知ることは『観ること』なのである。悟りとはまさに観ることなのだ。
彼らの寺院が『観』と呼ばれていたことでも明らかである。仏教の八正道の第一は『正しく観ること』である」


様々な思想や教えの中には、その教祖や提唱者の自我による考えや仮説も含まれている。
それを真理だと信じる行為ほど危険なことはない。
仮に、「真理」だったとしても、それぞれの教えはその断片に過ぎない。
我々の身の周りの様々な物体も、角度によって形が全く異なるのと同じである。
同じ物体でも、角度によって円に見えたり、長方形に見えたり、正方形に見えたりもする。
それを円だと信じる人、長方形だと信じる人、正方形だと信じる人がいる。
思想や宗教などの教えが混乱や争いを起こすという意味がお分かりだろうか。

或いは様々な教えを採り入れて、円であり長方形であり正方形であると信じ、自分自身で混乱している人も少なくない。
次元が上がれば全体が見えるようになってくる。
その時に初めて様々な教えの意味が理解できるのである。
それが悟りであり、悟る為の方法が「ハイパーネオデジタル内観」なのだ。
その為に、宗教や思想などで得た知識はもちろん、あらゆる既成概念や固定観念を外さなければならないのは道理である。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:42| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月07日

◆チェック2 宗教や思想にとらわれがないか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【どんな宗教や思想でも、真理を発見することはできない。
そこにあるのは、一時の慰めと偽りの愛である。
宗教や思想などに慰めやこだわり、とらわれなとがある場合は、
まずそれらを取り除いてからネオデジタル内観にとりかからなければ、絶対にうまくいかない】


なぜ宗教、哲学、思想、それに信じる教義などがあると真理に到達できないのでしょうか。
それは、宗教、哲学、思想などに関心があること自体、何らかの慰めをそこに求めているからです。
多くの人には、「幸せになりたい」とか「安定したい」という願望があります。
そうした願望は「慰めを得たい」という願望です。
「慰めを得たい」という願望を満たす一番の近道は、宗教や思想にのめり込むことです。
のめり込めば、他に何も考えることはありません。
求めていた独りよがりのやすらぎや、自己満足の安定は獲得できるでしょう。
しかし、それが調和的かどうかについては、まったく別問題です。
現実直視はできなくなり、「真の気づき」はとても体得できません。

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私は『日月神示』を柱として、オコツトの「ヌース理論」や「アリオン・メッセージ」、マーフィーや生長の家の「ニューソート(光明思想)」、ヒトラーの「超人思想」や「もりけん理論」などを検証してきたが、ネオデジタル内観をする時は一切の哲学的思想や宗教的教義を手放して、固定観念や既成概念を捨てて取り組んだ。

『日月神示』にも「神示捨てよ」と度々示され、次のようにも示されている。
「教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。天の理、地の理、
もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。迷信となるぞ。
思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ」


結果的に、私は宇宙の真理を悟ることが出来たのである。
学んで信じる思想や教義は「心の澱」「知識の垢」であり、魂の手枷足枷となって「信念体系領域」と呼ばれる幽界から脱出できず、高い霊界に上昇する事はできないのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 13:52| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月03日

STEP1「なぜ、ネオデジタル内観をするのか」を明らかにする

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


◆チェック1 内観の動機が願望から生まれていないか

【まず、「何のためにネオデジタル内観をしようとするのか」を調べる。
目的があればその目的を明らかにし、自分の心や体の病気改善、
あるいは能力開発などを実現したいという願望であれば、ネオデジタル内観は実施できない。
ネオデジタル内観以前に、それらの問題を解決しなければならない】


心や体の病気改善、それに能力開発は変身願望です。
そうした変身願望は誰にでもありますし、それ自体は悪いことではありません。
しかし、ネオデジタル内観はそうした変身願望を満たすものではありません。
世間には、伝統的な瞑想法とかヨーガ、その他いろいろな能力開発トレーニング、精神修養トレーニングなどがたくさんあります。
変身願望はそれらで満たせばいいわけで、内観にそれらを求めてもそもそもダメだということです。
そうした変身願望を実現したければ、内観以外の方法を選ぶことです。
また、従来の内観でも、心を落ち着けたり反省などはできますが、「真の気づき」を体得することはできません。
ですから、何らかの変身願望があってそれを実現したかったら、別の方法を選ぶか、あるいはそうした願望をキッパリと諦めることです。
諦めてしまうことが一番いいのですが、その諦めるという気持ちになるまでの切り替えに少し苦労するかもしれません。
内観ができなくても、人間は生きていけます。
それなのに、なぜあなたは内観をしようと思ったのでしょうか。
「なぜ、内観などに興味があるのか?」
「なぜ、それをしようとしているのか?」
こう自分に問いかけてください。

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アリオンは次のように教えている。

『何を観るのか?まず「ああなりたい、こうなりたい」という思いを外した部分で、
自分は一体、何の為に自分の生命を投げ出すことが出来るのか?ということを考える。
そうした時にこそ、自分が何であるか、何がしたいのかが見えてくる。
この状態の時に、最も人は謙虚に自分の生命を見つめることが出来る。
そうした裸の状態の自分を見ることが出来た時に、初めて自分の周囲が見えてくる』


心身の病気改善や能力開発は内観によって可能だが、それらは結果であって副産物に過ぎない。
内観の目的が「真の自己発見」にある事を忘れてはならない。
仏教の3大目的は「自己究明」「生死解決」「他者救済」だが、内観はこの「自己究明」に当たる。
仏教用語で内観を「観心」といい、内省して自己の仏性を観ることをいう。
仏性や神性と呼ばれるものが真我(魂)で、即ち「本当の自分」なのである。
変身願望はあって良いのだが、あなたは「何よりもまず真の自己発見をすることが先決」だと決意したはずである。
真の自己発見をするまでは、変身願望は一旦手放して忘れることだ。

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「心の学校」の佐藤康行氏は、次のように説いている。

【真我に目覚める】

「真我に目覚めるとどうなりますか。
あらゆる事柄に、愛と喜びと感謝の気持ちで接する事が出来るようになります。
そのような人の生活とは、どのようなものでしょうか。
決して揺らぐ事のない永遠の至福の状態といえます。
この世のあらゆる悩みや苦しみを乗り越える勇気が湧いてきて、毎日、毎時間、毎秒、一瞬一瞬が最高に充実して、一切の苦しみがない。
なぜかすべてが有り難く、嬉しく、涙が出たり、笑ったり、ニコニコしたり、静かにほほ笑んだり……生き生き、わくわくした日々が過ごせるようになります。
真我は愛そのもの、喜びそのものですから、真我を自覚するということは、すなわち、その時点で真の幸福を得たということになるのです」


【真我は万能】

「真我を開くと、すごいことが起きてきます。
健康問題、人間関係、仕事・勉学、家族の問題、恋愛問題、社会的な問題、ありとあらゆる問題にプラスの結果が出てくるようになるのです」


【真我開発の心構え】

「真我の開発に取り組む時は、儲ける為にとか、健康になるとか、健康になるからといった損得勘定で中途半端にやってはだめです。
真我を開くことは、人生にとって一番大切なことです。
真我を開けば健康問題、人間関係、恋愛や結婚、あらゆるものが解決できます。
まさに万能なのが真我ですが、どうしても頭で学ぼうとする人がいます。
心の問題を頭で学ぶのはベストとは言えないのです。
頭で学ぶと観念になってしまい、観念レベルで「わかったつもり」になると、かえってわからなくなるからです。
真我は体感、体得するしかない。
それは心を空しくして聞いて考えているうちに、ちょうど雷が落ちるように、一瞬にして納得がいく。
それは温泉や石油を掘り当てた瞬間に、一挙に噴き出してくるような、体感の世界なのです。
心のことは、決して学校の勉強のように頭で理解しようとしないでください。
自分が『本当の自分』に出会う為に、ひたすら『感じる』ことを目指してください」

【真我のご利益】

「真我に特定のご利益を求めないことです。
求めるようなご利益はありません。
でも、永遠に愛と喜びと感謝の日々がつづくのです。
真我が開いても、別に過去の借金が消えるわけではありませんが、そのものに対する捉え方、対応の仕方が変わってきます。
考えもしない解決策が現れるのです。
結果として借金で悩む必要はなくなります。
自分はこう考えるというのは自分レベルの話。
真我を開けば次元がアップしますから、考える必要がないのです。
自分を超えた解決策が出てきて、解決を必要とする問題そのものがなくなってしまうのです」


腹式呼吸で心を落ち着けて、次の3つを自問自答して回答を得たら、その回答と日付をノートに書き留めておいて頂きたい。

@なぜ、内観などに興味があるのか?
Aなぜ、それをしようとしているのか?
B自分は一体、何の為に自分の生命を投げ出すことが出来るのか?
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2010年08月31日

「つまらない」と思っていた日常生活に感動が

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


大阪府 A・K(二五歳・OL)

■机の上のテープレコーダーで認識の練習をすると

いま、認識のスピードアップ用のリストづくりをしています。
じつはほんの10日ほど前、500個のリストをつくっていたのですが、先生から
「いろいろなものを見ていくのではなく、一つのものにとどまって、細部までじっく
り観察してみてください」
というアドバイスをいただきました。
そこで、もう一度つくり直しているのです。

周りを見渡して、机の上にあったテープレコーダーから始めることにしました。
ウォークマンに比べたら、このテレコはつくりが大きくて、分厚いものです。
見た感じもスマートでないために、いままであまり好きではありませんでした。
それまでのスピードアップの練習では、いつも「嫌い」にわけられています。
あまり気乗りもせずに始めた観察でしたが、観察すればするほど、細かい部分にまで気が配られているのを発見して、このテレコにすっかり感動してしまいました。
いままで気がつかなかったほんの小さな出っ張りやカーブ、単なるデザインのように見えた微妙な形の変化、場所によって使い分けられている材質の違い……。
最初は「何これ?」という思いしか感じなかったのですが、よく見ていくと微妙な違いに意味が発見できました。
全部が使いやすくするための小さな工夫でした。
「よくもまあ、これだけの気配りを!」と感動してしまいました。
見た感じはあまり恰好よくないボタンが、触ってみるとほかよりも触りごこちがよかったり、また押しやすかったりします。
そして、形や大きさだけでなく、ボタン一つ一つの高さや手触り、押すときの感触を微妙に変えてあり、見なくてもどのボタンかわかり、操作を間違えないようにしてあるのです。
一つ発見するごとに、つくった人たちの優しさを感じました。
デザインした人はもちろんですが、それほど高価な製品ではないのに、小さなパーツや材質、つくりまで変えるなんて、採算が合うようにするには大変だったでしょう。
「いろいろな人がいろいろなところで知恵を寄せ合い、議論して工夫していったんだろうなあ」と、その光景が目に浮かぶようでした。


■「つまらない」と思っていたテレコが愛しく感じられた

このテレコがとくにそうなのか、それとも、いままで見ていなかっただけでどんな製品もそうなのかわかりませんが、とにかくテレコの外観だけで無理なく95個も書くことがあってびっくりしました。
スピーカーの穴も、はじめて一つ一つ数えました。
それまでにもスピーカーの穴の数を数えたことはありましたが、穴の並び方には法則性があり、簡単な算数の計算式で計算できます。
「穴を一つ一つ数えるなんて効率の悪いバカなことだ」と思っていましたが、今度は一つ一つの穴を数え、合計234個の穴があることをこの手と目で再確認しました。
穴を一つ一つ数えながら、スピーカーの端から真ん中にかけて微妙な膨らみがつけてあることを発見しました。
「こんなところもデザインする人がいるんだ」と思い、数えることの中にもまったく別の発見があることも知りました。
左右に動かす小さなボタンのところには、枠があります。
最初は型抜きのときにできた線だと思っていました。
「つくりが粗いな」と思っていたのです。
でも、触ってみたら、そこだけはほかよりスベスベしています。
ボタンが操作しやすいように、そこだけ変えてあったのです。
その微妙な滑らかさの違いをよく見たくて、ルーペを取り出しました。
ルーペで見て、やっとわかるくらいの違いです。
でも、指先の感覚ではハッキリわかります。
前に指紋の溝の深さが0.00何ミリとかで、精密機械をつくる人はわずか数ミクロンの凹凸を指先で感じるという話を聞いたことがあります。
自分の指紋をルーペで見てみました。手や脚の皮膚、それにうぶ毛や服の繊維の違いとかも見てみました。
匂いを嗅いだら、服の一枚一枚がまったく違う匂いでした。
手は部分部分で匂いが違って、指のつけ根にお昼に食べたハンバーガーの匂いがわずかに残っていたし、手首のあたりには朝つけた香水の香りがまだ残っていました。
指先から手首まで、ほんの15センチか20センチの間に、いろんな匂いがあってびっくりしました。
改めてテレコを眺めると、つまらないと思っていたテレコ、どうでもよかったテレコが、とても愛しいものに映りました。


■ただ鈍感なだけだった自分が見えた

観察を始めて2時間くらいの間に発見や驚きがいっぱいあり、満ち足りた気持ち、幸せな気持ちになりました。
いままで、感動や発見はどこかへ出かけて得られるものだと思っていました。
日常生活には感動はないと思っていました。
「日常生活はつまらないものだ」と思っていましたから、平凡な日常生活に満足して幸せそうにしている人たちの気持ちはわかりませんでした。
「つまらない人たち」、「つまらない人生」と思い、バカにしていました。
だから、感動を得るためにいろんなところへ出向き、特別に刺激的なことをしようともしていました。
でも、反対だったんです。
私が鈍感だったんです。
毎日の小さな変化や身の周りの人たちのちょっとした心づかいを感じ取ることができなかったんです。
私が鈍感なばっかりに、よほど大きな刺激がないと感動できなかっただけなんです。
よほど大きなプレゼントをもらわないと、「ありがたい」と思えなかったんです。
気づいてみれば、大雑把で鈍感な私でした。
いままで何回か過去の反省をしたりしてきましたが、イヤな思い出ばかり蘇って、暗い気持ちになりました。
被害者意識が強く、恨みや憎しみの気持ちを消すことができませんでした。
山本先生から、「生かされていることに対する感謝の気持ちを持ちなさい」といわれても、ピンときませんでした。
いま振り返ると、両親や家族、周りの人たちの気づかいや優しさが蘇ってきます。
「どうしていままで感じ取れなかったんだろう」と、自分勝手な私をずっと見守ってくれていた人たちに申し訳なく思いました。
ありがたくも感じました。
いままでたくさんの人たちの優しさを無視し、それに応えるどころか逆に傷つけることばかりしてきた自分、そのうえちょっとしたことを根に持って恨んだりしてきた自分、そんな自分の姿が見えました。
きっと、いままで気がつかずに通りすぎてきたたくさんの優しさ、気づかい、心配りがあると思います。
そうしたものが一つ一つ見えてきたら、いろいろなものへの愛しさが私を包んでくれると思います。
まだ一歩歩き出しただけですが、これから先、どんな発見と感動があるのかとても楽しみです。

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内観をすると幸感力(幸せを感じる力)が高まり、日常生活の中に歓喜と感動と感謝に満たされるようになる。
尚、ハイパーネオデジタル内観では肉食を禁止とする為、ハンバーガーなどは禁物である。
肉食は血液を汚して健康に悪いだけではなく、殺された動物の怨念に憑依されることになるからだ。
この話には科学的根拠があるので、神泉組1を参照して頂きたい。
肉食は内観の妨げになるので極力控えるべきだが、逆に内観をして真我に目覚めてくると、自然に肉食を受け付けなくなってくるものである。

血液の浄化には、水を毎日2リットル以上飲むことが基本だが、
自然に肉食を受け付けなくなってくる「梅雲丹」を紹介しておこう。
http://www.bahyu.com/top_baiuntan/kouyou.html
posted by アンリ・クリスチャン at 16:48| Comment(0) | 第3章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月30日

進学塾を経営する私の息子が、突然、不登校に陥って

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


富山県 Y・Oさん(44歳・進学塾経営)

■優等生だった中2の息子に異変が起きた

中学二年になってしばらくして、息子に異変が起こりました。
小学校の頃からずっと成績優秀を通し、積極的なリーダー格だった息子が急に不登校になったのです。
その年は梅雨に入って寒い日がつづき、息子も風邪を引いたようでした。
3日、4日と学校を休みましたが、最初は「風邪が治り切っていないのだろう。
治ってからいけばいい」と、あまり気にとめてもいませんでした。
ところが、咳もおさまったのに、何となく元気のない顔をして登校しようとしません。
家内が様子を尋ねても、「気分がよくない」とか「お腹の調子が悪いから、学校
へいって気分が悪くなったらイヤだ」というばかりです。
十日目をすぎ、私もとうとう子供を怒鳴りつけてしまいました。
次の日から2日間、子供は学校へいきましたが、3日目に「吐き気がする」と青白い顔で早退してきました。
それからまた、不登校が始まりました。
病院へ連れて行くと軽い胃炎と診断され、薬をもらってきましたが、飲んでいるふりをしてトイレに流していたようです。6月も下旬になっていましたが、7月の始めには期末試験があります。
そのことを指摘すると、「勉強していればいいだろう」と一人で問題集を広げて勉強するようになり、試験の日だけは登校して試験を受けてきました。
夏休みがくれば、少しはよくなるかもしれない。休みになれば、私も息子の不登校を悩まずにすむ。
「早く夏休みがきてほしい」と、それだけを願いつづけました。
夏休みに入ると息子の顔色もよくなり、友達と遊びに出かけるようになったので、一件落着かとホッとしました。
私も忙しく、あまり話しかけもしないうちに夏休みがすぎていきました。
しかし、新学期が始まっても、息子は学校へいこうとはしません。
家内もだんだんイラ立ち、私と家内の間でも口げんかが絶えなくなっていきます。
息子は、私に対しては面と向かって反抗せず、ただ不機嫌な顔をして横を向くだけでしたが、家内には何かと反抗してつっかかるようになっていました。


■順風満帆の塾経営だったが

中学生の子供の不登校は、親にとって大問題です。
このまま子供が学校に行かなければ将来はどうなってしまうのか、親として何もできないのか、親としては苦しい状態です。
しかし、私にはそれ以外の悩みもありました。
じつは、私は中学生を対象にした進学塾を経営していたからです。
「中学生の教育にたずさわる人間が自分の子供の不登校も解決できない」ということになると、たいへんな痛手になってしまいます。
私の住む富山県は、昔から非常に教育熱、進学熱の高い県として知られています。
私も、東京の大学に進み、富山色の強いある会社に就職しました。
しかし、長男ということもあり、親の希望から地元にもどって進学塾を開きました。
もともと哲学や教育学に興味があり、また田舎にいても自分を高めたいという強い気持ちを持っていました。
そのため、自己啓発や精神世界系のセミナーには積極的に参加したりと、一年に数回は上京していました。
塾でも、「子供の教育は親の教育から」をモットーに掲げ、3ヶ月に一度は生徒の親御さんを呼んでミニ講演会を開いたり、また親御さんの相談に乗ったり、カウンセリングをしたりと、自分でいうのも何ですがユニークな塾運営を心がけてきました。
中学生はちょうど思春期の不安定な時期ですので、親に反抗したり言うことを聞かなくなる子供も多く、親を対象にした講演会やカウンセリングは好評を集めました。
よく米騒動を引き合いに語られますが、富山の女性はしっかり者が多く、働くことにも抵抗がありません。
そうした気風が女性の高い大学進学率になってもあらわれています。
ですから、お母さん方のなかにも高学歴で職業を持たれている方が少なくなく、教育熱心な方が多いのです。
ミニ講演会は塾生の親御さん以外にも公開していましたから、口コミで評判が広まり、話を聞きにこられた方があとで子供を入塾させるケースも少なくなくありませんでした。
思った以上に経営は順調に伸び、「学校の先生よりずっと親身に相談に乗ってくれる」と言われ、私もそれを誇りにしていました。
その誇りと自信が、中学生の息子の不登校で揺らいでしまったのです。


■解決策をインターネット情報に求めた末に

中学校には医者の診断書と自宅療養の旨を伝えていましたので、塾の生徒の親御さんたちも息子は病気だと思い込んでいるようでした。
登校拒否をしていることは、だれにも知られていないようでした。
しかし、夏休みも終わって不登校が半年近くにもなると、息子の登校拒否の噂は生徒たちの親の間に広まり始めていました。
だれかに相談して火に油を注ぐことになれば、塾の経営にも支障が出てきます。
そこで私は、インターネットに頼ることにしました。
これならば相手にこちらの事情を知られる心配はいりません。
教育系や医療系のホームページにアクセスし、普通の親の顔をしてメールで相談を持ちかけたりしました。
しかし、返ってくる答えは、そのへんの教育雑誌に書かれているような内容と大差のないものばかりでした。
あるとき、たまたま山本先生のホームページを目にし、他のものとは内容が違うと思い、興味を抱きました。
内観という言葉は知っていましたから、「一度会ってお話をうかがいたい」とメールを送りました。
じつは、そのときの私は、自分ももちろん内観を試してみるつもりでしたが、それよりも子供や家内に内観をさせたいという気持ちが強くありました。
面談にうかがう日、私は息子も一緒に連れて行くことにしました。
ほんとうのことをいったら拒否されると思い、「大学時代の友人が一度遊びにこないかと誘ってくれたから、気晴らしに東京に遊びにいこう。
お父さんの通った大学も見せてやる」とウソをついて誘いました。
先生のところに着いて私が話し始めると、息子は自分がだまされたと知って猛反発し始めました。
私は頭に血がのぼり、いままで抑えつけていた感情が爆発し、すごい勢いで息子を怒鳴りつけてしまったのです。
すると、先生はこう言われたのです。

「いい加減にしなさい。だまして連れてきたのだから、子供さんが怒って当たり前でしょう。
あなただって、人にだまされたら怒るでしょう。
さっきから、『お前のために』とか『お前の将来』とか言っているけど、
あなたが考えているのは自分の体面、自分の現在、自分の将来ですよ。
ほんとうに子供のことを思っているのなら、そんな言葉が出てくるはずはない。
あなたは教育者として失格です。塾なんかやめてしまいなさい」


■自分の本当の気持ちに気づき、思わず涙がこぼれた

あまりの言葉に、私は呆然としました。言葉が喉につまり、反論もできません。
そんな私に、あるミニ講演会での自分の言葉が蘇ってきました。

「思春期というのは、たしかに心身の発達がアンバランスで、
精神的に不安定になりやすい時期です。
動物でいえば、それまで口を開けて親からエサをもらうだけだったのが、
エサをとる練習を始め、巣立ちの準備を始める時期です。
人間も同じです。言われたことを鵜呑みにしていた時期から、
自分で自分の将来を考え始めるようになる時期です。
親自身がまじめに自分の生きがいを見つめていれば、
親を尊敬することはあっても、反抗するはずがないじゃないですか。
反抗期なんてないんです。自分をしっかり見つめられない親は、子供を見つめられません。
親がいくら『子供のため』を連発しても子供は敏感です。親の裏を見透かし、反発するんです。
そんな言葉の先にほんとうの幸せなんかないことを直感的に見抜いているから、
親の言うことを聞かなくなるんです」

こんな立派なことを、私はお母さん方に言ってきました。
立派な教育者、親と子供の心を知っている教育者、自分の子供をしっかり育てている塾の経営者……。
それが私の一つの面でした。
そして、自分の子供が不登校に陥った瞬間、それらの像がガラガラと崩れていく恐怖におびえてしまった私……。
そんな想いが津波のように一気に押し寄せ、思わず涙がこぼれてしまいました。
そうです。私が守ろうとしたのは体面でした。
家内が「高校の恩師に相談に行ってみる」と言ったときも、私の体面がそれを止めさせました。
黙り込んでしまった私に代わり、横に座っている息子はニコニコして先生と話し始めました。
学校も勉強も嫌いではないこと。将来何になりたいかはまだ決めていないが、やりたいことがあること……。
この半年、親に向かってはろくに口もきかなかった息子が、楽しそうに、そして親の前では見せたことのない大人ぶったしっかりした口調で話しているのです。
先生は私に向き直ると、諭すように言われました。

「しっかりした素晴らしい息子さんじゃないですか。あなたも見習わないといけませんね。
息子さんはよけいなアカがついていませんから、自分のことも周りのこともよく見えるんです。
あなたはよけいな知識がつきすぎて、周りが見えなくなっている。
整理して、よけいなものを捨てていかないとダメですね。がんばって、内観してください」


■当たり前の顔をして学校に行き始めた息子

富山に帰ると、子供は母親にいままで心配かけたことを詫びました。
家内はキツネにつままれたような顔をしていましたが、次の日から息子は、登校拒否などなかったような当たり前の顔をして学校に通い始めました。
いま考えると息子は、ありったけの力を振り絞って、私の生き方に意義申し立てをしてくれていたのです。
この一件がなければ、私は自分の生き方を振り返ることもなかったでしょう。
塾をやめるかどうか、それはまだ結論が出ていません。
経済的なこともあるので、家内や息子とよく相談しながら結論を出していきたいと思います。
人間の価値は、地位や学歴で決まるとは思っていません。
しかし、そういうところをパッパをかけたほうが親御さんの受けがよく、生徒が集まることも事実です。
ギリギリの成績で高校へ入れば、授業についていくだけで子供はたいへんです。
それを知りながら、子供の気持ちよりも、そこに合格すれば親の体面は保たれます。
そして、そのために月に何万円という月謝を親は払っています。
たしかにそれは教育ではないし、教育熱心な親でもありません。
これまでそうした親に訴え、私たち家族は生活してきました。
いままでの塾のあり方と教育を、根本的に見つめています。
内観によってどういう道が拓けるか、たいへん楽しみにしています。
まったく新しい塾の構想が出てくるか、あるいは塾を閉鎖するか。
どちらにしても、そこには新しい自分がいるはずです。
あのとき先生の前で流した涙、あの涙は新しい自分の始まりです。
その涙を忘れずに、ネオデジタル内観を続けたいと思っています。
富山と東京、途中まで新幹線はできましたが、まだまだそう簡単に往復できる距離ではありません。
家内もやりたいと言い出しましたので、いまパソコン相手に2人でネオデジタル内観を始めています。
息子と山本先生、それに家内に感謝しています。

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この塾の経営者は、息子が不登校にならなければ、ネオデジタル内観に出会うことはなかった。
だから、息子に感謝して当然である。
もし、何もなかったとしても、親が子供に感謝できなければ親失格である。
「子は親の鏡」であるから、子供に感謝できない親は子供に感謝されない。
「子は親の鏡」であるが故に、子供を観るのも内観である。
「親を尊敬しろ」「親孝行をしろ」「親に向かって……」などと、一方的に上から目線で接するようでは円満な家庭は築けない。
そこで宗教などに走ったりするというのは笑止千万。

私も不登校をしていたが、子供は大人が思っている以上に何でも分かっている。
むしろ、大人と同じように接するべきである。
小学校高学年くらいになれば、大人と同じだと考えて良い。
次世代を担うのは今の子供たちなので、教育は非常に重要である。
教育とは、放任主義で自由にさせるのが良い。
悪い事をしても説教をする必要はない。
説教をしなくても子供は分かっているのである。
むしろ、説教は逆効果になることの方が多い。
ここで教育論の話をしても仕方ないので止めておくが、
「子は親の背中を見て育つ」という事を認識し、
広い愛で包み込んでいればそれ以上は余計な事をしない方が良いのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 13:01| Comment(0) | 第3章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月06日

いろいろな回り道の末に出会った本物の内観

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


東京都 K・Tさん(49歳・主婦)

■精神世界への興味が自分から実感を奪ってしまった

ネオデジタル内観に出会うまで、私はずいぶんと寄り道をしました。
子供たちが学校に通うようになり、やっと時間の余裕ができましたので、以前から興味のあったヨガ教室に入ったのがそもそもの始まりでした。
最初の頃は、教室が終わったあとの気の合った人たちとのおしゃべり、それに食事やお茶が楽しみでした。
でも、だんだんとそんなお付き合いに物足りなさを感じ、講師を目指して本格的に勉強し始めました。
健康法としての呼吸法、ヨガのアーサナ、そして整体や心理療法など、身体と心に関することを身につけていきました。
潜在意識の鍛錬として密教の世界や神道にも首を突っ込み、精神世界に熱心に関わるようにもなりました。
ところが、こうした修業をすればするほど知識ばかりが頭の中で空回りし、足が地につかない状態に陥ってしまいました。
現実感覚がなくなり、自分が実感できなくなってしまったのです。
そんなとき、ある人から、自分の内側を掘り下げていくという内観を紹介されました。
自分の浄化にもいいのではないかと思い、主人に相談して、どうにか一週間の時間をつくりました。
一週間の間、畳敷きの狭い部屋にこもり、いままでの人生を振り返って、してもらったこと、お返しできたこと、お世話になったことなどを調べました。
普段から涙もろい私ですから、すっかり感情を揺さぶられ、母や父、それに現在の家族にどれだけ傲慢であったかに気づき、申し訳なさで泣きはらして一週間が過ぎました。
内観所を出たときは、心がすっかり洗い清められたような感じでした。


■内観所での成果は現実の前にすぐに無力になった

しかし、日々の生活に戻ると、あれほどの感謝の気持ちも次第次第に薄れていきます。
いつしか、まったくもとの自分に戻ってしまいました。
一週間の内観所修業であれだけ感謝の心を感じ、心が洗い清められたような感じがあったのですが、それは一時しのぎの浄化にすぎなかったのです。
一瞬であっても、内観が私の心を清めてくれました。
だから、内観自体は意味のあることだという感じはありましたが、普通の生活に戻れば元の黙阿弥では困ります。
そこで、もっと効果のある内観、本物の内観を探し始めました。
そんなときでした。山本先生の書かれた『あなたのなかに、すべてがある』という本に出会ったのです。
本を読むうちに、従来の内観ではどうしてもうまくいかなかった点を改良した自己変革システム、それにデジタル内観という不思議なネーミングに興味を覚えました。
さっそくに面談をしていただきました。そのとき、先生からこう言われました。
「興味本意では長続きしませんから、そこだけはよく考えてください」
続くかどうかの自信はありませんでしたが、とにかくネオデジタル内観を始めることにしました。
ネオデジタル内観を始めた動機は、二つありました。
一つは、頭が知識でいっぱいになって現実から離れてしまった自分を取り戻すことです。
もう一つは、宗教や精神世界に興味を広げていったときと同じで、「いま教えている健康法をより確かなものにまで高めたい」ということでした。
その一つの手がかりになればいいと思ったのです。


■現実との関わりの中で、本当の自分に目覚めたい

いざ始めることは決めたものの、「忙しいから今できないけど、それは仕方がない」とか、「もう少ししたらちゃんとやろう」とか言い訳ばかりする日々を送っていました。
毎月、会報が郵送されてきます。何度か面談も受けました。
そうした折々に、山本先生の熱意を感じ、言い訳ばかりしている自分をただただ情けなく思ったものです。
こんな私でしたが、一歩踏み出していろいろ観察してみると、今まで人のためになると思い、ひたすら技術の向上に努めてきた健康法自体に疑問を感じ始めました。
他力的な苦痛の除去や手当ては病気をさらに増幅させるもので、病気を根本的に解消するものではないことを知りました。
調和・不調和の観点からすると、今まで教えていた健康法は不調和を助長するということがわかり、健康法の指導はやめることにしました。
いま私は、現実との関わりの中で、本当の自分に目覚めたいと思っています。
パソコンを使うネオデジタル内観は、より扱いやすく、効率的にもなっています。
楽しみながら内観ができるようになってきましたし、先生の適切なアドバイスが何といっても力強い味方です。
まだまだ浅い内観ですが、自分を守ることばかり考えていること、自分が勝手につくりあげてきた既成観念にがんじがらめになっている自分の現実、つまらないこだわりに振り回されている自分が見えたりして、おもしろいものです。
ネオデジタル内観にたどり着くまで、いろいろな回り道をしました。
でも、そうした回り道があったからこそ、ネオデジタル内観にめぐり合ったときにその真価がわかったのだと思います。
これからも、日々の生活の中でのおこないや言葉をより一層厳しくチェックしながら、内観を深めていきたいと考えています。

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宗教や精神世界に没頭する危険性がよく分かる記事だと思う。
このK・Tさんの場合はヨガなどの健康法も行なっていたので、まだ心身のバランスがとれていたようだが、宗教や精神世界で得るものは結局「知識」であり、意識進化の妨げになるケースも多い。
その事は「世界平和の実現は内観から」で詳述した通りである。
http://world888.seesaa.net/article/149725373.html

また、低級霊と波長が合って、霊媒体質・霊媒心質になっていく人も多い。
『日月神示』には、宗教や精神世界の洗脳を解く効果もあが、その神示ですら「ハラに入れたら一度捨てよ」と示されている。
私は宗教・精神世界・スピリチュアル系だと勘違いされる事が多いが、実は全く違うし、日月神示原理主義者でもない。

さて、内観道場で内観の効果を感じても、日常生活に戻れば元の木阿弥……
「この世は修行の場」と言われている通り、この世俗の中に生きて意識進化を図る事が大いなる修行なのだ。
その事は「従来の内観はここに問題があった」でも詳述した。
http://world888.seesaa.net/article/148665421.html

自分で自分をコントロールし、すべての感情に縛られず、常に自分を客観的に見て、マイナスな感情に影響されないようにすることが世俗での修業なのだ。
その為に、ハイパーネオデジタル内観が存在するのである。

また、「他力的な苦痛の除去や手当ては病気をさらに増幅させるもので、病気を根本的に解消するものではないことを知りました」との事だが、『日月神示』にも同様の事が記されている。

「邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ」

私もヒーリング能力があるが、そういった理由で人の病気治しはしないようにしている。
「天は自ら助くる者を助く」という言葉があるが、重要な事は自分で真の健康を獲得する事であり、それは内観とも無関係ではない。
そこで私は、「神泉組1」とワンセットで広める活動をしているのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 04:07| Comment(1) | 第3章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月05日

「トイレのないマンション」それは私のことだった

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


神奈川県 N・Iさん(34歳・元環境NGOスタッフ)

■環境問題に取り組んでいた私の三つの疑問

二十代の頃から環境問題に関心を持ち、少し前までアルバイトをしながらある環境団体の専属スタッフとして活動していました。
ネオデジタル内観を知ったのは、インターネットで環境関連の情報を集めている時です。
自分の活動に少し疑問を感じ始めていた時でもあったので、さっそく資料を請求しました。
私の疑問はいくつかありましたが、大きく分けると三つになります。
一つは、環境問題がブームで終わってしまうのではないかという危惧です。
ここ数年マスコミなどで環境問題は盛んに取り上げられていますが、果たして根付くのかという心配が私にはあったのです。
次に、日常生活の見直しが大事ということで、暮らしの中でのリサイクルの工夫がいろいろ紹介されたりしていますが、本当にそんなことで環境問題が解決されるのだろうかという疑問です。
最後が、一緒に活動している人たちの姿勢への疑問です。
よくいえば個性的、悪くいえば他人の意見に耳を貸さない頑固者が少なくないのです。
こうした疑問が心の中に広がり、以前のような純粋な気持ちで活動できなくなっていました。
私の最大の問題は、純粋な気持ちで活動できなくなっている自分への苛立ちと焦りだったのです。
ネオデジタル内観の資料を送っていただき、山本先生とメール交換を始めました。
先生のメールの一つに、「個々の意識の変革浄化なしに環境浄化はありえない」という言葉がありました。
これは今まで私たちがやってきたこと、考えてきたことと似ていました。
「日常生活の見直し」、「個人の意識からしか環境問題は解決されない」と私たちも考えていたからです。
しかし、じつは全く違うことだったのです。
先生とのメールのやり取りの中で、私が抱いていた疑問が何だったのか、その正体が少しずつ明らかになっていきました。


■自分の気持ちがわからない

今の環境問題でのやり取りは、現象面に終始しています。
ゴミが多すぎて困るから減らす、あるいは再利用の方法を考える。
温暖化が進むと困るから二酸化炭素の排出量を減らしたり、フロンの使用を制限する。
埋め立てが進むと鳥や魚の棲むところがなくなるから、埋め立てに反対する。
そして、それらは政府や企業、自治体に対する抗議であったり、一般市民への呼びかけであったり、ライフスタイルの見直しだったりします。
しかし、こういう問題が生じるに至った原因、こういう問題を発生させた人間の思考にまでメスを入れるということはほとんどありませんでした。
考えないこともなかったのですが、「心の持ちようを変えなくてはいけない」といった程度にとどまっていました。
各地で色々な問題が生じています。
その一つ一つに対策を立てることは、たしかに一時的に効果はあるでしょう。
でも、あるところを押さえればまた別のところから新しい問題として現れて来るだけで、いつまでたっても改善の方向には向かわないように思いました。
人間存在の在り方やエゴについて、学者や知識人、文化人といわれる方々は、哲学的に抽象的に評論します。
けれども、それは私の日常生活からは遠く感じられるものでした。
内観という言葉は、初めは聞きなれない言葉でした。
内観とは、毎日の生活の中で、自分が何に価値を置き、何を考え、どう行動しているかを見ていくことです。
だから、誰にでもできることですし、身近で簡単なことのはずです。
だって、自分を見ればいいんですから。
簡単なはずのそのことが、私の場合は難航しました。
素直な自分の感情、自分の気持ちが自分で分からないのです。
「こうだ」と思って書き出してみても、あとで見るとどこか空々しいのです。
毎日の反省も、「これはいけなかった。こうしなければいけない。○○に注意しよう」と、書こうと思えばいくらでも書けるのです。
でも、内容のない優等生の作文のようで、何だか他人事のようになってしまうのです。
内観の一つの手法として、いろいろなものを「好き」と「嫌い」に分けていく方法があります。
ところが、自分の目の前にあるものが好きなのか嫌いなのか、私にはわからないのです。
たとえば、車です。
私は小さい頃からドライブに連れていってもらうのが好きだったのですが、環境問題に関心を持ってからは移動には電車を使い、毎日の生活はもっぱら自転車を利用していました。
自分一人の移動のために、まして遊びのために車を使うなんてもってのほかです。
「車は好きだけど嫌い、嫌いだけど好き」、何だか恋人と別れるかどうか迷っているような感じで、結論が出ません。
そんな感じのものがいっぱいあって、私は宙ぶらりんの状態なのです。


■「内観は掃除と同じ」と言われて

先生からはよく言われました。
「あなたは考えすぎる傾向がありますね。考えるのをやめるようにしなさい」
何度もそう言われましたが、「考えるのをやめるって、どういうこと?やめてどうすればいいの?」と、また考えてしまいます。
そんな事の繰り返しでした。
あるとき、何かのついでに、私が新しいアルバイトを探しているとお話しました。
すると、先生はこうおっしゃったのです。
「アルバイトをするんだったら、お掃除のお仕事がいいですよ。
掃除は内観ととてもよく似ています。
両方とも、ゴチャゴチャ汚れてきたなくなったものからゴミを取り、きれいに磨いて整理する。
環境を良くしたい、世の中をきれいにしたいと思っているのなら、お掃除の仕事が一番ですよ」
「掃除のアルバイトなんて」と思いました。そんな恰好の悪い仕事は嫌だと思いました。
「あれはオバサンの仕事、ほかに働き口のない人の仕事だわ。友達に見られたら恥ずかしい」とも思いました。
そんな心を見透かしてか、先生は色々な話をして下さいました。
若い頃、先生も掃除の仕事をされていたこと。
地球上の生物で一番多いのが微生物で、その微生物が物を腐らせ、分解し、土に帰してくれるから循環が起こり、次の生命が生まれて来ること。
ハイエナやハゲタカは、人間が勝手に草原の嫌われものにしているけれど、死体や他の動物の食べ残しをきれいに掃除してくれていること。
言われてみれば、彼らがいなければ、草原のあちこちには死体が転がり、悪臭のたちこめるおぞましい世界でしょう。
私は、毎日、駅から電車に乗って移動しています。
もし、ゴミを集めてくれる人や掃除してくれる人がいなかったらどうでしょう。
きたない駅や街は荒れて寒々とした感じがありますし、いつもきれいにされているところは清々しくて気持ちもいいものです。
だからといって、「いつも私がこんなにきれいにしてあげているのよ」と偉そうに自慢する人を見たことはありません。
みんな黙々とゴミを集め、掃除されています。
それなのに私は、いままでそれを「ありがたい」と思ったことがありませんでした。
「見ているようで、見ていないことがいっぱいあるんだ」
私は、そう気づきました。


■先生の言葉の意味がずっしりと心に響いた

思い切って掃除のアルバイトを始めてみると、想像とはまったく違う世界でした。
掃除の手順や掃除用具一つとっても、至るところに創意と工夫があり、感心させられることばかりです。
ある日、仕事から帰ってきた私は、トイレの汚れが妙に気になって掃除を始めました。
便座の奥のほうは狭くて手が入りづらく、ホコリがたまっていても、いつも無視していたところです。
「つくるときは、掃除する身にもなってつくってほしいわよね」
そう独り事をつぶやきながら掃除していると、「トイレのないマンション」という言葉が頭に浮かんできました。
「トイレのないマンション」とは、反原発運動をおこなっている人たちが、原子力発電所を称して使った言葉です。
廃棄物処理の問題をタナ上げにし、具体的な処理の技術も対策もないままにつくられていく原子力発電所を、「トイレのないマンション」と表現したのです。
「きっと原発を推進している人たちは、トイレ掃除なんか考えてもみない人たちだろうなあ。
トイレ掃除をしている人が考えたら、あんな施設はつくらなかっただろうな」
そう思った次の瞬間、私は愕然としました。
ただ目の前の問題を解決する事ばかりを考え、あとを振り返らずに進んでいる人たち……。
欲しいものをつくりだすことと手に入れることだけに一生懸命で、あとは野となれ山となれの人たち……。
その姿勢は、現代文明が歩んできた姿そのものです。
そして、今の自分、今までの自分の人生の生き方でもあったと気づいたのです。
やりたいことを優先し、引き止めるものは振りほどき、ゆく手の障害物は踏み倒し、ただただ「これが私の生きる道」と突っ走ってきた自分……。
忠告してくれる者はうるさがり、賛同してくれる人とだけ付き合おうとしていた自分……。
そのことに気づかず、ただ企業や国や自治体、それにほかの人たちの生活スタイルを批判していた自分……。
「個々の意識の変革浄化なくして環境浄化はありえない」
そのとき初めて、先生の言葉の意味が見えたのです。
題目としての「意識の変革浄化」ではなく、自分の生活を通して、自分の生き方を通して環境をとらえなければならない。
そうでなければ、環境問題なんて語る資格がないと気づいたのです。
自分の気づかないところで、こういうことはいっぱいあるでしょう。
そういうものを見つけていくこと、そういうものが見えるようになること。
それが内観じゃないかと思います。
いまやっと、階段に一歩足をかけることができたような気がしています。

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かつて私はネオデジタル内観をする前に、心の学校の内観を受けた。
そして、環境問題を考えてNPO法人設立の申請を出した。
また、私はアルバイトは絶対にしないと固く誓って生きてきたが、内観のせいかそのような拘りがなくなり、掃除のアルバイトをしようと考えていた。
その頃はまだこの本を読んでいなかったので、環境問題や掃除のアルバイトに興味を持ったのは偶然だった。

結局、掃除のアルバイトではなくホストクラブのバイトを選んだのだが、そこで待っていたのは徹底的な掃除だった。
トイレはもちろん、おしぼりで床の拭き掃除……営業時間外の仕事なので無償の労働だった。
そのアルバイトはある理由で数日で辞めてしまい、ちょうどその時に「絶対変革」の本を読んでネオデジタル内観を実践したのだった。
今までに紹介したアイテムを使用して修行をしていた私は、簡単に「真の自己発見」をしてしまったのである。
これを名付けて「ハイパーネオデジタル内観」という。

また、高校生の頃に掃除のアルバイトをした事がある。
学校の校舎がビルだった為、清掃会社が入っていたので、そこで雇ってもらったのである。
放課後、教室や廊下、階段、トイレなどを、おばさんと一緒に掃除していた。
当然ながら他の生徒に目撃されていたが、幸いにも他人の目を気にしない性格で、掃除をしている姿を見られてプライドが傷つくという事もなかった。
現在私はNPOの本格始動と共に、世界が直面している諸問題の解決策を提案し、新世界秩序の構築に向けて働きかける計画をしている。
だが、基礎となるのはやはり「内観」であり、ハイパーネオデジタル内観を世界に普及させる事が、真の国際問題処理に貢献する事になると信じている。

松下政経塾でも、昔は掃除の教育しかされなかったらしい。
近年、「運勢をUPさせる掃除術」という類の本が沢山出版されているが、非常に良い傾向だと思う。
獣は以前、以下のの本を買ったが非常に良かったので一読をお薦めする。
著者の名前は、偶然にも山本健二氏と漢字違いの同姓同名である。
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私は仏教系の小学校に行っていて、「宗教」という科目の授業で聞いた逸話だが、釈迦の弟子でお経が覚えられない頭の悪い弟子がいた。
彼は読経の代わりにひたすら掃除をし続けることで、死後、釈迦の弟子の中で最も高位の天界に逝ったという。

「隗(かい)より始めよ」という言葉がある。
大きな事を成すには小さな事から始めよという意味である。
環境問題に取り組むなら、まずは身近な掃除から始めるべきなのだ。

『日月神示』も同じ事を説いている。

「小さいことから始めよ。小乗の行と馬鹿にするでないぞ。
小乗の行から大乗の真理を掴むのであるぞ」


そして、『日月神示』には「カイの御用」という言葉が登場する。

「江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、
カイの御用も忘れてならんのざぞ」


尾張(終わり)に対して、カイは「初め」という意味だと解釈できるが、それは間違いではないようだ。

「食い物大切に、家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ。初めの行ざぞ」

カイには神という意味もあり、掃除は神の御用であり、初めの行なのだ。
人々が心の掃除をすれば、世界の大掃除(天変地異)も小さな規模で済む。
戦争も全く同じ原理である。

「戦恐れているが、臣民の戦くらい、何が恐いのぞ。
それより己の心に巣喰うてる悪のみたまが恐いぞ」

「世界がそなたに移っているのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ」


世界平和の第一歩は、心と血液の掃除洗濯(身魂磨き)なのだ。
また、『日月神示』を読む事でも身魂磨きが出来るそうだ。

「毎日、一生懸命に掃除していても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。
まして掃除せん心にホコリつもっていること位、
誰にでも判っているのであろうが。神示で掃除せよ」


読むだけでOKの極めて簡単な修業である。
ひふみ神示のダイジェスト版「太神の布告」をお薦めする
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posted by アンリ・クリスチャン at 00:10| Comment(0) | 第3章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする