2010年09月22日

◆チェック4 自分の思考パターンを把握しているか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【疑問追及、そしてさらなる疑問追及こそ、真理に到る道である。
ただし、その前にやらなければならないことがある。
それは熾烈な自己凝視である。
自分を正し、自分の内面を深く掘り下げ、自己の心の奥底にもぐり込め】


どういう状況であっても、熾烈な自己凝視を怠ってはいけません。
ただひたすら自分の内面に向かうことです。
疑問追及とは、自分の頭脳に刻まれた思考パターンを把握するために、自分がものを見たり、何かを考えたりしているとき、どういう経路で、どういう反応をしているかを調べることです。
それを徹底的におこなう姿勢が大事です。

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思考パターンの把握は最初から分かるものではないので、ここではスルーして良い。
疑問追及、そしてさらなる疑問追及……それが熾烈な自己凝視であり、釈迦やイエスも最終的にその事を説いたのである。
しかし、今までその具体的な方法を教えてくれる人はいなかったが、ネオデジタル内観によって万民に「悟りの道」が開けたのである。
更に、脱落者を出さない為に私が提案しているのが「ハイパーネオデジタル内観」なのだ。
posted by アンリ・クリスチャン at 08:01| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月21日

◆チェック3 疑問の答えを自分の外側に求めようとしないか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【疑問はただせ、どこまでも追及せよ。
ただし、自分の心の中でほんとうの答えを発見しなければならない。
自分自身で確かめもせず、噂話や単なる情報に心を動かしてはならない】


まず、批判と疑問は違うことに留意してください。
何らかの疑問が内部に起きたとき、すぐ人に聞かないようにし、疑問を自分の内面へ持っていく習慣をつけることです。
そして、参考になるようなものを探すとか、情報収集の気持ちを外へ向けないことです。
自分の内面を掘り下げていって、その疑問の答えを内面に探す心がけをしてください。
以前に内観の勉強会というのをしたことがあります。
勉強会などをすると、参加者は何らかの情報収集をしようとします。
初対面の人であってもすぐに親しくなって、お互いの住所を教え合ったり電話番号を聞き合ったりします。
そこから、個人的なお付き合いが始まったりします。これは内観にとっては無意味です。
個人的なお付き合いがダメだといっているわけではありませんが、お互いの情報交換によって少しでも得をしようとする行為が内観の深まりを阻害し、結果的になかなか気づくことにならないのです。
また、自分自身で確かめもしないで噂話などに関心を持つことも、同じような意味合いから気づきの邪魔になります。

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『答えはすべてあなたの中にある』という本があるが、『日月神示』にも次のように示されている。

「天の声は内から聞こえて来る、人間の言葉は外から聞こえて来る。
霊耳と申すは内からぞ。耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ」
「内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ」


だが、外からの情報には注意が必要である。

「世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。
悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ」


今後、「自問自答」について解説するが、重要な事は、「本当の自分」である内なる神(魂=真我)に問いを発する習慣をつける事である。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:43| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

◆チェック2 批判や中傷をする心があるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【どんな理由があっても、批判や中傷をしてはならない。
どんなに小さいことでも、絶対に中傷してはならない。
批判や中傷は、情報収集から生まれる自我のあらわれである】


批判には、まず自分の考えがあります。
その自分の考えと他人の考えが違う、あるいは行為が違うので文句を言いたくなるということです。
また、対象があるので批判が生まれるわけですから、これは強い自我のあらわれそのものです。
批判は自己主張と同じようなもので、気づきとはほど遠い状態です。
中傷というのは、批判を越えてしまって、言葉に出したり、攻撃行動に移したりして相手を傷つけることですから、絶対におこなってはならないことです。
批判や中傷の原因を探ると、やはりそこには情報収集があります。
何も知らなければ、批判や中傷は起きません。
私たちは別に知らなくてもいいものをいっぱい取り入れ、そうしたどうでもいいもので頭がいっぱいになって混乱しています。
身辺整理から始めて頭のなかを整理しなければ、「真の気づき」は体得できません。

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私は昔から、テレビやラジオの視聴の弊害を強く訴え続けている。
テレビやラジオからは、どうでも良い話や情報も洪水のように流されている。
それが潜在意識にインプットされ、性格や思考パターンに影響を与え、運勢にも大きく影響しているのである。
また、それによって自分の価値観や固定観念が確立され、自分の理解できない話や納得できない話を、否定・批判をするようになる。
批判は強い自我から生まれる自己主張であり、内観を邪魔する最大の敵である。

尚、内観はその感情を無視・否定するのではなく、自分の価値観を捨てて客観的に分析することである。
動物占いが「ヒツジ」の私は、情報収集と共に情報整理も天性的に得意だったので、頭が混乱するという事は殆どなかった。
また、物事を客観的に捉える性質の為、あまり批判や中傷という事をした記憶がない。
同じようなタイプの人は少なからず存在すると思うが、全くタイプの異なる相手とは口論になる事があって当然である。
批判や中傷は、情報収集を含めた過去の記憶によって形成された価値観から生まれるものである。
だが、強い自我による自己主張ではなく、自分の考えと他人の考えの違いについて口論するのは悪い事ではない。

アーリオーンは次のように教えている。
「自分を観るということは、先ず自分の言葉で自分のことを語ることから、そして他者にそれを伝えることから始まる。
他者の反応は自らのものとは異なる筈だ。どこがどう異なるのか?異なる点について自分は、どう感じるのか?
そうした事柄を誠実に会話する努力無しで、一般論を持ち出していては、自分を観ることから遠ざかることになる」


批判や中傷を目的とした批判や中傷は無価値だが、調和や和解を前提とした論争なら有意味である。
また、それが単なる自己主張ではなく、相手の視点や客観的な視点、つまり多角的な視野で全体を観る必要がある。
ネオデジタル内観によって真我と繋がれば、今までとは違う次元から全体が見えるようになる。
また、知識ではなく真理を体得する為、自我と自我の論争や批判ではなく、相手を諭す為の説教となる。

シルバー・バーチは次のように伝えている。
「自分が得た真理を次の人へ伝えてあげる、それが真理を知った者の義務なのです。
自分の知り得たことを他人に授けてあげる事こそ、私にとって奉仕の道だと心得ているからに他なりません」


それが宗教の原点であり、釈迦やイエスも真理を説いてきたが、言葉で真理を伝える事が出来ないというジレンマがある。
故に、道教や禅は「黙して語らず」というスタンスを一貫している。
しかし、真理到達(真我発見)のナビゲートである教えがなければ、人は容易に悟りを開く事は出来ない。
釈迦やイエスは最終的に「内観せよ」と教えている。
つまり、多角的に真理を学んだら、それを捨てながら自己の内面に入っていく作業をするのが、自ら真理を発見する近道だと言える。

「自分を観るということは、先ず自分の言葉で自分のことを語ることから、そして他者にそれを伝えることから始まる」という事については、自分史や自叙伝をブログで展開する事をお勧めする。
過去を書き出す事は「内観」そのものであり、人々に詳細を伝える唯一の方法だからである。
posted by アンリ・クリスチャン at 22:38| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

STEP3 情報と批判と疑問の追及などについて見直す

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


◆チェック1 なぜ情報を取り入れたいと思うのか

【情報を仕入れたいと思うのは、不安だからである。
ほんとうのことを知りたいという気持ちは、
安定したいと思う欲望であることを知らなければならない】


結論からいうと、情報を仕入れたいとか、何でも知りたいという欲求の奥底には不安があるのです。
情報不足や知らないということで取り残される不安、バカにされる不安、差をつけられる不安、話についていけなくなる不安……。
そうした不安が情報を求めさせ、知りたい気持ちを加速させます。
「知の追及」といえばかっこいいのですが、実際は、「不安の拡大再生産」にすぎません。
しかし、だれもその奥底の不安を認識していません。
ほんとうをいえば、いまの自分が不安だということを認めたくないのです。
「いま」というとき、そして「いまの自分」に満足していたら、知りたいと思うはずがありません。
いろいろなことを次から次にやりたくなる人がいますが、そうした人はとくに厳しくチェックする必要があります。
「なぜそれをしたいのか」ということを観察してみてください。
情報を仕入れてはいけないとか、いろいろなことをしようとしてはいけないといっているわけではありません。
内面にどんな思考が働いてそれを実行しようとしているのか、それを調べる必要がある、といっているのです。

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私は情報収集が好きで、色々な事をやりたいタイプだった。
好奇心やチャレンジ精神が旺盛なのだが、「不安だから」とか「安定したいと思う欲望」という訳ではなかった。
問題は、内面にどんな思考が働いてそれを実行しようとしているのか…それを調べる必要があるという事である。
そして結果的に、情報収集(知識欲)や様々な事をやりたいという願望が激減したのは確かである。
posted by アンリ・クリスチャン at 18:45| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆チェック6 何も期待しないで内観を始められるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【教える者と教わる者とが存在する相対の世界には、「真の気づき」はない。
まして、そこから真理を見出すことは絶対にできない。
そこにあるのは相対間の感情と知識だけである。
知識と感情で相対を超えた一元の世界を知ることはできない】


「真の気づき」は教えられるものではありませんし、教わることもできません。
だから、師弟関係は成り立ちません。
ですから、私は何も教えることはないし、もちろんあなたの心を操縦することもできません。
私から何かを学ぼうとする姿勢があれば、それはダメです。
内観は知識を増やすことではなく、知識を整理し、よけいな知識は捨て去ることです。
何かを学んでそれを自分のものにして得をしようとする考えは、厳しくチェックする必要があります。
内観の出発点は、そのようなことは何も期待しない「無所得」ということです。

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「教える者と教わる者とが存在する相対の世界に真の気づきはない」という事は、端的に言えば「宗教に教祖は要らない」ということになるが、「心の学校」の佐藤康行氏も同様の事を述べている。

「これまでの宗教は釈迦やイエスのような選ばれた人が、神の意志、宇宙の法則を霊感によって受け取り、それを言葉にして身近な弟子に伝え、弟子が民衆に伝える形で広まってきました。
これからは一人ひとりが真我を通じて、宇宙と直結して、宇宙の法則を悟っていく時代です。
今日の宗教が人類全体の幸福や平和な暮らしに、必ずしも良く寄与していないことは、残念ながら認めざるを得ません。
なぜそうなるのですか。
それは釈尊やイエスの教えが伝言ゲームのように、長い間に少しずつずれて、真意が正しく伝わらなかったからです。
また、多くの伝道者が介在したことで、考えが複雑難解になってしまいました。
もともと人間一人ひとりが宇宙と直結した存在ですから、一人ひとりが宇宙の法則と直結して生きれば、そういうずれは起きてきません。
そのためには真我を開発すればいいのです」


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内観に何も期待しないというのは、STEP1のチェック1「内観の動機が願望から生まれていないか」で解説した通りである。
内観によって得られることは無限にあるが、それを得る為には期待してはいけないことを肝に銘じておく必要がある。
内観によって得られる悟り、真の気付きは、文字や言葉で他人に教えることはできない。
それをすれば、方便の宗教と同じことである。
また、他人から何かを学ぼうという依存精神がある限り、真の気付きを得ることはできない。
アリオンも、内観によって自立することを勧めている。

内観は教義を学んだり、知識を得たりといった、外部から情報を取り入れる事とは全く正反対の作業である事を忘れてはならない。
タマネギの皮の話を思い出して頂きたい。また、期待するのは欲望からである。
脳波がシータ波になれば欲望は消滅するが、それ以前に、欲望や期待を捨てて内観に取り組む姿勢が大切である。
内観によって得られるものは、知識ではなく「智慧=宇宙の叡智」だという事を肝に銘じておいて頂きたい。
posted by アンリ・クリスチャン at 06:25| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

◆チェック5 自分の理解できるものだけを取り入れようとしていないか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【何かを教わり、また学ぼうとするとき、人は思考を働かせる。
そして、それを自分の納得のいくように組み換えて記憶する。
納得のいくように組み替えられた記憶が、自分の思考パターンとして定着する】


何かを学ぼうとすると、必ず頭が反応しています。
そして、自分がそれを納得できるかできないかを判断しています。
人間の頭の中には、いままで学び蓄積してきた記憶データがあります。
新しい事象に出会ったとき、保存されているその過去の記憶データとまず比較します。
そして、それに共鳴したり合致すれば、新しいデータを引き出しやすいように組み立てたり、あるいは組み替えて再び記憶という倉庫に入れます。それが、人間のおこなう認識というものです。
人は、たえず自分という過去のデータのフィルターをとおして、ものごとを判断しています。
ですから、まったく未知のできごとに出会った場合、人間は判断停止のような感じになって、自己限定するまで、あるいは自己満足するまで不安や恐怖が持続するのです。
ここで重要なことは、自分の理解できないものは否定し、理解できることだけ取り入れているということです。
じつに自分勝手な思考が働いているわけですが、ネオデジタル内観ではそうした自分勝手な思考を厳しくチェックしなければなりません。

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内観で有名な「心の学校」でも「人間は記憶で出来ている」という捉え方をしているが、その記憶が価値観や先入観を作っているのだ。
その思考パターンによって認識や判断をしているという事は、人間は如何に独断と偏見で生きているかが分かる。
人間は、五感を通じて感じたり考えてたりして培ってきた常識や価値観の物差しを基準とし、損得勘定や善悪の判断をしている。
更に現代人は、様々な情報を吸収して理論・理屈に囚われ、それを自分のアイデンティティとして頑固なまでにしがみついている。
だが、自分の価値観に囚われている間は、本当の自分の姿を知る事は出来ない。
内観では、この自分本位な思考に、厳しく目を光らせていなければならない。
まずは、内観の時だけで良いので、色眼鏡という自分の価値観や固定観念を捨てる必要がある。
posted by アンリ・クリスチャン at 22:09| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆チェック4 頭脳の中、記憶の中に真理はないと思えるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【真理はいかなる教えの中にもない。真理は記憶の中にはない。
別のところを探さなければならない。考えるところ以外のところを探せ。
思考を働かせない工夫をせよ】


「あれも真理、これも真理」ということはありえません。
しかし、真理ではなく、道理となれば話は別です。
「それぞれ道理だ」ということはありますが、真理は普遍的・絶対的で一つのものです。
ですから「それも真理ですが、これも真理です」ということはありえないのです。
真理も、神や愛と同じように境界をもたないものですから、頭脳の中、記憶の中にはないということを理解しておかなければなりません。

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宗教を遍歴しても「真理」に出会う事はない。
真理は愛と同じく「神」の代名詞のようなもので、言葉による説明は不可能であり無意味である。
古今東西、様々な聖者が真理を説いてきたが、それらは真理の断片に過ぎない。
また、真理について様々な定義もされているが、「表面的な現象や心理を支配する、奥深くに隠された内的な原理」という説明が的を得ている。

かつて、イエスは言った。
「私は真理である」
「真理を知らないことが最大の罪である」


「イエス・キリスト=真理」という事になるが、どういう意味なのか。
イエスは太陽神「ヤハウェ」を自称し、「世の光である」と名乗っている。
つまり、真理は「太陽」なのだ。
神は宇宙そのものであるはずだが、一体これはどういう事なのか……。

出口王仁三郎は次のように述べている。
「神の実証は太陽である。太陽に神力を集中しておられるから……」

日本神話では、太陽神を「天照大神」という。
イエス・キリストと対比された黒住教祖の黒住宗忠は、「全ての人間は天照大神の分魂を頂いている」と説いた。

そして、イエスはこう語っている。
「私は汝の手や足よりも近くにいる」
「私は常にあなた方のハートをノックしている者である。私に気づきなさい」


つまり、真理とは魂(真我)の事なのだ。
天の岩戸開きによって天照大神がお出ましになる。
キリスト教でいう「イエス・キリストの再臨」である。
それは、本当の自分である「真我」に目覚める事を意味しているのだ。
山本氏は「思考を働かせない工夫をせよ」と教えている。
思考を停止させる為には脳波をシータ波にする必要がある。
その時、自我(思考)は消滅し、真我と繋がるのである。

『日月神示』はこのように説いている。
「真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ」

神・愛・真理は同じものであり、思考の産物ではないことを理解した上で、内観に取り組んだ方が良い。
posted by アンリ・クリスチャン at 03:04| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月15日

◆チェック3 愛について考えないようになれるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【愛とは何か。愛とは何かを考えるとき、そこには愛はない。
愛は教えや思考の産物ではないからである。
「愛がある」とか「愛がない」とか論ずる者に愛はない。
そして、愛の何たるかを知らない者である】



「愛」という言葉はよく使われますが、一般的に使われる場合、それは「愛」ではなく、「情」なのです。
ほんとうの愛は、何の見返りも考えないものですし、普遍的であり絶対的なものです。
ほんとうの愛は、「神」と同じような領域のものなのです。
これに対し、情は感情の領域です。
「愛のもつれ」などという表現がありますが、じつは「情のもつれ」以外のなにものでもありません。
情と愛を混合してしまっているために、愛が怒りや憎しみに変わったように思い込んでしまうのです。
前にもいいましたが、普遍的なもの、絶対的なものは、人間の頭では認識できません。
ですから、ほんとうの愛は頭では認識できませんし、「愛がある」とか、「愛が多い」とか、「愛が少ない」などと語ることもありえません。
愛を論じる人は何もわかっていないということになります。
ネオデジタル内観では、神と同じように、愛についてもとりあえず考えないようにします。

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宇宙即我(天人合一)を体験すると、愛と神が同一のものである事が分かる。
神の性質が「愛」だと言っても良い。
従って、神を知らずに「愛」を知る事は有り得ない。
神と言っても「信じる神」ではなく、自らの心の中に体験する神である。
内在神である魂(真我=本当の自分)は愛そのものであり、真の自己発見をした時に初めて人「愛」を知る事になる。
愛は太陽の光のようなもので、万物に平等に与えるものである。
一休さんはその事を悟ったのである。
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特定の人物に与えるのは愛ではなく「情」である。
心理学的に「愛」には様々な形態があるが、アガペー(人類愛)以外の愛(男女愛や家族愛)は本当の愛ではなく「情」なのだ。
愛について語れば一冊の本にしても語り切れないが、そもそも愛は言葉で語れるものではない。
森田健著『ハンドルを手放せ』に、分かりやすい説明があるので引用したい。
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夜は導師にとっておきの質問をしました。
「道教にはキリスト教でいうところの愛という単語はあるのでしょうか?」
即座に答が返ってきました。
「ありません」
やはりないのです。私はこの答に内心、ゾクッとしました。
さて、ここからが面白い点です。
みなさんは聖書のエデンの園の話を知っていますね。
しかしアダムとイブが食べたリンゴ、すなわち知恵の実の本質的意味については不明です。
知恵の実とは何だったのか……。
これは、キリスト教の世界と道教の世界とでは、とらえ方が逆だったのです。
まず、道教の場合を説明しましょう。
道教の場合は、「荘子」という本の中に出ている「混沌説話」が失楽園のそれです。
昔々、オッチョコチョイという王様とアワテモノという王様が住んでいて、日頃お世話になっているコントンという王様にお礼をすることになりました。
2人はコントンがのっぺらぼうなのを気の毒に思い、色々な手を尽くして耳や口を作ってあげました。
すると7日後にコントンは死んでしまいました。おしまい。
どこが知恵の実ですって?どこが失楽園ですって?
解釈をすればわかります。
オッチョコチョイとアワテモノは都会の人間です。感覚器官は知恵のシンボルです。
コントンは田舎の人間です。
その田舎の人間に色々な情報を与えたら、死んでしまったのです。
しかしこの物語をよく読むとわかるのですが、与えた情報は儒教の説く「仁義礼智信」つまり、理想の価値観だったのです。
コントンは知恵を得て死んでしまいました。
アダムとイブは知恵を得て苦しみ始めました。
ところでアダムとイブの食べたリンゴ(知恵の実)の本質は、いったい何だったのでしょうか?
私の推測ですが、それは「原罪」だったのではないでしょうか。
つまり原罪の実を食べてエデンを追い出されたから、彼らは世間に出てからやっと理想の実を食べ始めたのです。
実は人類はいまこれを食べている最中です。
ひょっとすると歴史をかけて食べ続けているのかも知れません。
その先どうなるかは分かります。コントンがたどった結末です。
アダムとイブは生から死に向かっているのです。肉体的な意味ではありません。
精神的な死に向かっているという意味です。
理想の生き方の代表選手である「愛せよ」というスローガンの元、精神的な生から死に向かっています。
「道教に愛はありません」
導師はこう言い切りました。
愛という単語を口にしたとたんに愛が死んでしまうのを知っているのです。

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道教がやること……それは以前のコントンの状態に戻ることです。
つまり顔のないのっぺらぼうの自分に返ることです。
誰でもない自分に返ることです。
キリスト教は生きている元々の状態を罪としています。
だから「ある」がままを発散してしまうと罪を発散してしまうことになるのです。
だから毎日「理想の生き方」という薬を飲んでいます。
それが精神の死につながる薬であることも知らずに。
道教は「理想の生き方」という薬が死につながることを知っています。
だから不老不死を目指す彼らは絶対に飲みません。
何を飲むかと言えば、しいて言えば、それを吐き出す薬です。
吐き出して、何もない状態に戻るのです。
「ある」がままという状態には、混沌説話で言えばまだ耳や口がありそうです。
それらを取り去った状態は「ない」がままとでも言えるのではないでしょうか。
彼らは「ある」がままを通り越し、「ない」がままを目指します。
五官ができる以前の世界に戻ろうとします。
キリスト教が成長だとすれば、道教は退行です。
そう、道教には胎息という修行法があります。
胎児の状態に戻って呼吸をするという修行法です。
これは姿勢さえも胎児に戻った格好をします。


ネオデジタル内観は道教的なメソッドだと言える。
人間が生きる為に最も必要なものは何か……それは前にも書いたが「空気」である。
神や愛というのは空気のようなものである。
人間は神の大愛の中で生かされているが、人間はその事に全く気づいていない。
気づいていない事を頭で理解できるはずがない。
その「真の気づき」を得る為の最短プログラムがネオデジタル内観だと言っても過言ではない。
本当の愛は、見返りを求めず与える一方のものであり、普遍的で無差別で絶対的で、神と同義である。
「愛とは考えて理解できるものではなく、知ることもできず、そして言葉で表現できるものではない」という思いで、内観に取り組んだほうが良い。
posted by アンリ・クリスチャン at 21:26| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

◆チェック2 とりあえず神や仏などと無縁になれるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【神を語る者は神を知らない。
神が人間より小さなものならば、語ることはできる。
しかし、神が全知全能で絶対者であるならば、
人間の小さなモノサシで計り知ることはできない。
神を想像したり、空想にふけることはできる。
ただし、想像や空想は現実ではない。
どんないい訳をしても、神を語ることは現実直視を阻害する】


ここで重要なことは、ネオデジタル内観実践にあたって、神とか仏とかはとりあえず無視するということです。
実際に「真の気づき」を体得し、「私は意識だ!」という認識ができたときは、そこからここまでが意識で、ここからあそこまでが何々だなどということはありません。
そのような垣根や境界のようなものがすっかり取れるからです。
表現を変えると、「私が宇宙!」という状態です。
そうした状態では、神や仏などという言葉、私とかあなたとかいった相対の世界から切り離されます。
唯一絶対の境地ですから、語らなくても絶対的な存在を実感できるのです。
ですから、「神もない」「仏もない」状態から、ネオデジタル内観を始めます。
ましてや悪魔だとか悪霊だとか、指導神だとか指導霊だとか、そういうものはいっさい存在しないというふうにしておくほうがいいのです。
思うことと現実とは違うということであり、悟ったと思うことと悟りとは違うということです。

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ネオデジタル内観により、「自他一体」「宇宙即我」という境地を体得する事が出来る。
その時、無神論と有神論が紙一重である事が理解出来る。
西洋人は特定の人格神を信じているが、自然を征服する事で文明を発展させてきた。
縄文人は大自然の中に神を見て畏敬の念を抱いていた。
神を信じていなくても、自然と調和を図る人の方が「本物の有神論者」とも言える。

シルバー・バーチは次のように伝えている。
「祭壇の前に平伏し神への忠誠を誓い、選ばれし者の一人となったと信じている人よりも、唯物主義とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった宗教とは無縁の人の方が遥かに霊格が高いといったケースがいくらもあります。
問題は何を信じるかではなく、これまでどんなことをして来たかです」


中国の超能力者・孫儲琳は5次元以上の指導霊や天使と交信している人物だが、森田健氏が「神」について質問をすると「神って何?」と答えたという。
まさに、道教や禅の「黙して語らず」の世界である。

浅野和三郎だったか…日本の神道系宗教の偉人にも同様のエピソードがある。
「神とはどのような存在ですか」という質問に対して黙して語らず、二度三度質問しても答えなかったという。
それでもしつこく質問すると、彼は起き上がって正装に着替えて姿勢を正して正座し、やはり何も語らなかったという。

『日月神示』には次のように示されている。

「そなたは一度神を捨てよ。
神にしがみついているから、小さい囚われた、ゆとりの無い神を、そなたがつくり上げているぞ。
信ずれば、信ずるほど危ないぞ。
大空に向かって大きく呼吸し、今までの神を捨てて心の洗濯をせよ。
神を信じつつ、迷信に落ちていると申してあること、よく心得よ」

「日本の国は一度つぶれた様になるのざぞ。
一度は神も仏もないものと皆が思う世が来るのぞ」


いずれ、誰もが神仏の存在を信じなくなる程の大艱難の時代が訪れるという。
その時までに、自分で創り上げた神の概念を破壊し、真の神を知って平和と安寧を確立しておく必要がある。

「神様でも大神様は判らんのであるぞ」

神様でも大神様の事は判らないので、人間に神様の事が判る訳がない……
その原点に還る事がネオデジタル内観の出発点だと言えるだろう。
神を知ることは、究極的に自分を知ることであり、「宇宙即我」の境地こそが、神を実感する唯一の方法である。
従って、一度、無神論になって内観を始める必要があるということである。
posted by アンリ・クリスチャン at 13:44| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

STEP2 神・愛・真理といった既成概念について見直す

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


◆チェック1 神とか絶対的なものを人間の頭は知り得ると思うか

【神を語る者は神を知らない。そして、神を見ることもできない。
しかし、指導者といわれる人は神とか愛を語り、自分を偉く見せるために
いろいろと思考をめぐらし、屁理屈を並べ、説教できる言葉を考える。
神であるとか、神の代弁者であるとか、神の子であるとか、神のしもべであるとか、
これらはすべて説教用の言葉であり、並べ立てられた文字である】


紙切れの神、あるいは偶像神とかいうようなものであれば、その神について語ることはできます。
目の前にその神の形があるからです。
しかし、神を普遍的なもの、無限であり絶対的なものだとすると、語ったり表現する事はできません。
人間の頭脳自体が有限であり、ちっぽけなものですから、無限のものを知ることはできないからです。
私たちの認識の範囲は、実にちっぽけな範囲です。
イメージとしてはいくらでも勝手に拡大できますが、イメージは現実ではないため、神を現実として語ることはできません。
宇宙についても、同じです。
宇宙はとてつもなく広大なものですから、地球のこともよく知らず、日本全体もよく知らないくせに、あたかも知り尽くしたかのように宇宙を語ることなどできるはずがありません。
いま述べたように、神とか絶対的なものを知ることはできません。
それらを語る者の言葉は、頭でひねり出した言葉にすぎません。
まして、仏典や聖書に書かれていることは、人間が頭で思考して書いたものです。
それらを信じてしまうことが、いかに自己限定した思考なのかを知らなければなりません。
ネオデジタル内観は現実直視をもっとも重視しますので、そうした思考は捨てなければなりません。

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私は神を説明する事が出来る。
神とは宇宙そのものであり、万物万象が神の顕れである。
神とは…目に見えない存在であると同時に、目に見える存在でもあるのだ。
では、宇宙とは何か……。
それは素粒子(意識)の集合体であり、人間そのものである。
宇宙は「マクロコスモス」、人体は「ミクロコスモス」と呼ばれているが、
『日月神示』によると「神は自らの中に宇宙を造り、人間の極まったのが神である」という。
そうすると、人体こそが「マクロコスモス」という理論が成立する。
単なる理論ではなく、「本当の外側は内側にある」という感覚を体得する事も内観の醍醐味なのだ。

しかし、それで人体の全貌を説明できないのと同じように、神(宇宙)の全貌を解明して説明する事はできない。
だが、総てを知る事は出来なくても、結果的に言えば、人体が大宇宙で、自己の中に神が宿っている事を悟るのが内観である。
故に、今までの知識や観念よる「神」を捨てる必要がある。
posted by アンリ・クリスチャン at 14:24| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする