2010年03月25日

アンリ・クリスチャンから一言

内観とは「真の自己発見」に至る為の自己観察瞑想で、
真の自己とは「真我」、いわゆる「魂」のことである。

「内観」について、Wikipediaには次のように説明されている。

『昭和期の実業家・僧侶、吉本伊信が浄土真宗系の信仰集団・諦観庵に伝わっていた自己反省法・「身調べ」から秘密色、苦行色、宗教色を除き、万人向けのものとした修養法。
内観法、吉本内観法、あるいは医療に応用されて内観療法ともいわれる。
現在、中国にも内観学会が設立され、その他韓国やヨーロッパ等で、森田療法と並ぶ日本製の心理療法として国際的に認められるようになったほか、刑務所や少年院などの矯正教育や、一般の学校教育、企業研修などにも応用されるようになった。
母親をはじめ、身近な人に対する自分を、1週間研修所にこもって3つの観点から反省する。
自分を客観視することができるようになり、しばしば劇的な人生観の転換を起こす。
欧米で Naikan といえば吉本の内観法をさすことが多い』



現在の日本で広まっている内観法は、この吉本内観法がベースになっていて、ネオデジタル内観も例外ではないが、従来の内観法を超越した「魂の覚醒メソッド」となっている。

吉本内観法はもともと、1週間の集中内観に断食も伴っていたそうだが、釈迦も断食と独自の内観(ヴィパッサナー瞑想)によって悟りを開いた。

イエスもインドで仏教を学んだ後、ヒマラヤで修行したという記録があり、
イエスが指導していたと考えられる「クムラン宗団」は、ユダヤ教エッセネ派だが、断食や瞑想など仏教徒やヨギ(ヨガ行者)のような修行をしていた。

つまり、イエスも釈迦と同じ方法で悟りを開いたのだが、両者の共通点はサタンの誘惑を受けていることである。

サタンの正体は、このサイトを読み進めて実践することで読者にも分かる時が来るが、もちろん、サタンに勝利できるように読者をガイドしていく。

そして、サタンを倒した時に「真実の神」に出会うことになるが、真実の神(真我)の意識に到達し、これを一般的に「悟り」という。

通常、人間は肉体意識の「自我」のみで生きているが、魂の意識に到達すると、5次元の世界に存在する本体の霊魂「トータルセルフ」と呼ばれるものと融合する。

人間の霊魂はトータルセルフの分魂であり、究極次元では宇宙創造主である。

ヒンドゥー教では、真我を「アートマン」と呼び、宇宙の根本原理を「ブラフマン」と呼ぶ。

このブラフマンを神格化したものを「ブラフマー」と呼び、それが肉体に顕現した魂が「アートマン」だが、その両者が同一のものである事を実感する至高体験を「宇宙即我」や「天人合一」と呼ぶ。

悟りには段階があり、その度合いによって真理の認識度が変わってくるが、それによって自他の分離観念が稀薄となるため、自他の境界の「差取り」とも呼ばれている。

自他だけではなく、あらゆる二元性を等化して、その中心の視点で物事を観れるようになり、5次元の叡智が流れ込み、さまざまな宇宙真理が分かるようになってくるのである。

真我に目覚めることを「覚醒」というが、完全に覚醒すると肉体の削除(アセンション)が起こるので、我々がまず目指すべきは「半覚醒」だが、『あるヨギの自叙伝』には次のように書かれている。

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「わたしは長年、厳しい内観の行を続けてきました。
それは至難な英知への道です。
自分の心の動きをあくまで冷酷に凝視する厳しい自己観察は、心身を損なうほど痛烈な苦行です。
そしてこれによって、心の底に巣食う最も頑固な自我を粉砕してしまうのです。
しかし、こうした真の自己分析は必ず、真理を洞察する覚者を生み出します。
これに反して、自我を容認するいわゆる“自己表現主義”は、神や宇宙に対して自分勝手な解釈を施して譲らない自己本位な人間をつくってしまいます。
人間は、自分の心の醜さに目を閉じて自分をごまかしている間は、永遠の真理を理解することはできません。
人間の心の中を洗いざらい明るみに出してみれば、過去幾生涯の間に無数の迷いによって歪められた醜さが、正視に耐えないほど充満しています。
この心中の敵との戦いに比べれば、戦場の戦などは物の数ではありません。
心中の敵は、力ずくで絶滅できるような生やさしい相手ではありません。
この“無知な欲望”という敵は、至る所に潜んでいて、巧妙な策略と恐るべき有毒兵器を隠し持ち、眠っている間でも、たえず我々を殺そうと狙っているのです」


『日月神示』の次の言葉を思い出す。

「戦恐れてゐるが臣民の戦位、何が怖いのぞ、それより己の心に巣くうてる悪のみたまが怖いぞ」

「己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」


サタンと言うと恐ろしいイメージがあるかも知れないが、多くの人々が既にサタンに憑依され、思考や感情を支配されて生きていることに気づかずに生きている方が、遥かに恐ろしいことである。

「自我を容認するいわゆる“自己表現主義”は、神や宇宙に対して自分勝手な解釈を施して譲らない自己本位な人間をつくってしまいます」

「自我の容認」とは、近年盛んに説かれている「自己肯定」に通じるものがある。

自分の内なる暗黒面から目を逸らし、その投影である外側の世界に原因や責任を求める多くの人々は、無意識的に強固な自己否定観や自己嫌悪感を抱いている。

そこで、「自己肯定」というメソッドも必要ではあるが、それだけでは意識進化にはならない。

類義語で「あるがまま」や「ありのまま」という言葉も流行っているが、その言葉を利用して単なる我が儘を押し通そうとする人も少なくはない。

本当に自分の内面を直視した時に、それを「良し」として認めることができる人は皆無に等しいだろう。

自己肯定は「ゴミ屋敷に住んでいても良し」、「そんな自分もありのままで良し」というようなものである。

それによって、自己否定や自己嫌悪から解放される効果はあっても、霊的成長(意識進化)は望めない。

自己肯定をする一方で、別の視点からは「見たくない自分」にメスを入れるのが内観で、それを抜きにして輪廻の解脱(魂の半覚醒)は考えられない。

今、「身魂磨き」や「アセンション」について盛んに話題になっているが、形式的に祝詞を唱えたり、食事改革をするだけではあまり効果は望めない。

まず、価値観や先入観、固定観念などの汚れを落とし、余計な願望や信念、執着、囚われ、過去の悪想念などを捨てて、幽界次元から脱却することが「解脱」の第一歩となる。

そのレベルであれば巷の内観でも到達可能だが、その段階ではまだ輪廻を解脱していない。

そこは「フォーカス27」と呼ばれる輪廻転生地点で、4次元の天界だからである。

私が提唱する「ハイパーネオデジタル内観」は、ネオデジタル内観に各種メソッドを加えたもので、5次元の世界に突入可能な「半覚醒プログラム」である。

それは全く新しい視点の獲得で、世界観の激変をもたらす。

「ミロクの世」の実現、即ち人類の意識レベルの底上げの為には、5次元意識に目覚める人々を増やす必要がある。

「ミロクの世」は勝手に実現するのではなく、人類の意識進化によって成就することを認識しておく必要がある。

『あるヨギの自叙伝』には次のように書かれている。

神との合一を可能にするものは、本人の努力であって、単なる神学的信条でもなければ、宇宙主宰者の気ままな意志でもない。
スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった“完全なるもの”を取り戻させるために、「人はたえず『己とは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。
これこそまさに“偉大なる問い”である。
これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中に次第に深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。


「自分は何者なのか」「どこから来てどこに行くのか」という疑問は、真の自己発見によって氷解する。

結論から言うと、人間の本質は神であり、天から来て天に帰るが故に、人間の存在目的は「意識進化」を置いて他にはないのだ。

ヒマラヤの聖者スリ・ダヤマタは次のように述べている。

魂の願望は真理をただ概念的に理解するだけでは満足させることはできません。
それは神の泉からそれを実際に飲むことによって初めて可能となるのです。
自己実現とは、真理すなわち神を直接体験することです。


宗教やスピリチュアルなどで、真理について勉強している人は少なくないが、それが単なる知識で終わるなら「観念」という名のゴミに過ぎず、意識進化の弊害にさえなりかねない。

私も真理を説いているが、釈迦は「私の言葉も信じてはならない」と言った。

内観とは、今までに学んだ真理や教義、道徳などを捨てていく作業でもあり、それによって真理を自分で悟るようになってくるのである。

だが、その一方で、真理を学ぶことも無意味ではない。

矛盾したような話だが、正しい真理が潜在意識に入っていると、自分で悟れるようになる期間が短縮されるからである。

しかし、それを観念や信念にすることなく、一旦は頭の中を白紙にした上で自分を見つめていくのである。

少なくとも、内観をする時は一切の知識や観念に囚われないようにする必要がある。

「自己実現とは、真理すなわち神を直接体験すること」ということだが、それは真の自己発見(半覚醒)による「神人合一」の体験である。

定義にごだわる必要はないが、私は「神人合一」と「天人合一」とを区別していて、「天人合一」を宇宙との融合だとすると、「神人合一」は人格神との融合である。

いずれにしても「みたま磨き」が必要で、日月神示では「みたま」を「身魂」と表記し、身魂磨き(心身の浄化)の重要性が繰り返し説かれている。

心と潜在意識を浄化する方法が内観だが、それと併行して「肉体の浄化」を図る必要があるのだ。

心身が一体のものである限り、体内デトックスをしなければ心の浄化を図ることは難しい。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺がある通り、体内デトックスをすると精神がクリアーになってくる。

気功師の若山敏弘氏によると「内臓全体が心」らしいが、確かに胃は「意」に通じ、胃の調子が良くなれば意識もクリアーになり、腸は「第2の脳」で、腸がキレイになれば心もキレイになる。

また、三大死因は「ガン」「心臓疾患」「脳疾患」で、いずれも血液の汚れが原因でなる病気だが、ガンは血液の濾過装置として発生するといわれており、その意味では、心臓や脳の疾患などによる突然死から守ってくれているともいえる。

それはともかく、血液は腸でも造られているため、腸がキレイになると血液もキレイになる。

霊は古語で「ち」とも読むが、血と無関係ではない。

大本教の聖師・出口王仁三郎は次のように述べている。

「白血球は体の養やうを司るものであり、赤血球には霊が充満して居る。
また霊の交通運輸の役目もする」

「霊は血液を機関として居る事は毎度云ふ通りである。
水死者などが死後数十時間を経過したる後、父母兄弟など身寄りの者の来る時は、鼻孔等より血液の流れ出づるものである。
これは霊と霊との感応作用が起るからである」

「血の色は心の色である。
赤き心などと昔からいふが、赤血球は霊そのものであると云うてもよい。
心の変化は直ぐ血の色に影響するもので、羞耻しうちの念が起ると一遍に顔色が赤くなり、心配事に遭遇すると蒼白色になる。
その度ごとに血液は色を変ずるのである。
ふとした出来事より悪漢が善心に立ち帰ると云ふ事があるが、その時はパッと一度に血液が色を変ずるので面が輝いて来るのである」


私は心の主体は字義通り「心臓」だと思っているが、その奥に魂の中継センターが存在する。

近年の医学では、心臓の奥に「心臓脳」と呼ばれるものが発見されているが、それが魂の受信機のようなものだと考えられる。

魂がどこに宿っているかという問題について諸説あるが、肉体の特定の部分に宿っていると仮定すれば、それは間違いなく心臓で、『ホワイト・イーグルの霊示』にも次のように示されている。

その霊示の本質は、「人は神の子である」ということ。
それをイーグルは「キリスト神霊の子」と表現します。
キリスト神霊とは霊太陽(宇宙を維持して生かしている根源の光)のことで、その分霊を受けているのが人間だというのです。
この「神の子」がスピリットで、それは心臓チャクラに鎮座すると明言しています。
これが「内在の神」です。


このキリスト神霊の子である「内在の神」が真我(魂)なのだが、私は半覚醒して「魂は肉体に宿っていない」ということが感覚的に分かるようになった。

心臓はあくまでも「魂の受信機」であり、中継センターのようなもので、「魂が肉体に宿っている」という観念が自我を強固にしている元凶ともいえる。

いずれにしても、心臓は心と魂の働きと密接に関連していることは確かで、キレイな血液が心臓を流れることで心もキレイになるということになる。

もちろん、脳も心の働きと連動しており、脳にキレイな血液が循環することにより、思考がクリアーになって雑念なども少なくなると思われる。

『日月神示』には次のように示されている。

「神憑かれる肉体たくさん要るのぞ。
今度の行は○(身)を綺麗にする行ぞ。
掃除できた臣民から楽になるのぞ。
どこに居りても掃除できた臣民から善き御用に使って、
神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。
神の臣民、掃除洗濯出来たら、この戦は勝つのぞ」


「この戦」とは、もちろん内観(サタンとの戦い)のことである。

釈迦やイエスも断食によって肉体の浄化を図り、食欲という名のサタンに打ち勝ったが、私は決して断食を強要している訳ではない。

しかし、半日断食(朝食抜き)で、1口50回噛んで腹8分目にして、動物性をなるべく摂取しないことは非常に大切なことです。

冒頭に書いた身調べも本来は断食を伴うもので、ヴィパッサナー瞑想の10日間の合宿でも少食の菜食である。

分かりやすくいうと、肉食や過食をすると血液が汚れるので、低級霊に憑依されて思考や感情を支配され、正しく内観することが難しくなってくるということである。

また、ヨガでは体操と瞑想がワンセットだが、多種多様で複雑な体操を日課にすることは容易ではない。

そこで、この【神泉組2】(ハイパー・ネオデジタル内観)と共に、姉妹サイト【神泉組1】で紹介しているシンプルな健康法を、可能な限り実践してもらいたいと思う。

以下、ネオデジタル内観の創始者・山本健二氏の著書『絶対変革』を紹介していくが、各タイトルごとに私の解説を載せていくので、参考にして頂ければ幸いである。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:00| Comment(2) | まえがき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
さとりとは、自我側から見た現象です。

自我が存在することで純粋意識が隠されています。

ところがその自我が純粋意識を求める。

それがさとりを目指すということです。


もし純粋意識(本当の自分・真実の存在)を感得しないまま肉体を去れば、人生で何を得たつもりになっても、それらはすべて自我が織りなす夢を見ていたのと同じです。

夢は幻想であってリアリティではありません。

幻想は100万回繰り返してもリアリティにはなりません。

ですから生きながらにして目覚める(さとる)ことは最も大切なことです。


しかし繰り返しますが、それはあくまでも自我側から見た経験であり、リアリティであるところの純粋意識(本当の自分)にしてみれば、たとえ100万年間、自我という雲に覆われても、まったく影響されずにいまここに在りつづけています。

したがって、さとりを見失うこともなく、さとることもないのです。

どっちだって同じです。
Posted by さとらなくてもいい at 2015年03月29日 11:46
さとらなくてもいいさん、こんにちは。

例えて言えば、空が雨雲に覆われていても、
その上空には太陽(真我)が輝いているということですね。

究極的に本質はそうですが、
真我が何たるかの定義によると思います。

ハイヤーセルフを真我と呼ぶ人もいますし、
究極的実在のブラフマンも真我ですが、
それらは今の個人的な自分の意識や個性ではありません。

私は現世に誕生した個人的な自分の魂を「真我」と呼んでいます。

それはハイヤーセルフの分身ですが、
別々の意識と人格を持つ霊的生命体です。

そして、人間界での人生は、
自分の魂が見ている夢の世界だと言えます。

>もし純粋意識(本当の自分・真実の存在)を感得しないまま肉体を去れば、人生で何を得たつもりになっても、それらはすべて自我が織りなす夢を見ていたのと同じです。

この話自体は同感ですが、この文章の中で2つ質問があります。

@純粋意識(本当の自分・真実の存在)とは何でしょうか?

A自我が織りなす夢を見ているのは誰でしょうか?

普通に解釈すれば@もAも「魂」なので、
文章に当てはめてみました↓

>もし魂の意識を感得しないまま肉体を去れば、人生で何を得たつもりになっても、それらはすべて自我が織りなす夢を魂が見ていたのと同じです。

確かにその通りだと思います。

そして、ここまでは私の解釈に異論はないと思います。

しかし、以下の話には大きな矛盾がありませんか?

>純粋意識(本当の自分)にしてみれば、たとえ100万年間、自我という雲に覆われても、まったく影響されずにいまここに在りつづけています。
したがって、さとりを見失うこともなく、さとることもないのです。

余計な指摘をして申し訳ありませんが、
悟っていないのは魂が眠っている状態です。

それ故に、自我が織りなす夢を見ているのですが、
魂は純粋意識ゆえに自我と同じように悲しみ苦しみを味わい、
延々と六道輪廻を繰り返して無明の世界を彷徨っているのです。

>自我という雲に覆われても、まったく影響されずにいまここに在りつづけています。
したがって、さとりを見失うこともなく、さとることもないのです。
どっちだって同じです。

それは違うのではないですか?

半覚醒していない場合、
真我である魂は深い眠りの夢の世界に入り込み、
自我と一体化したような状態で存在しています。

魂の意識レベルは自我と同じだということです。

従って、「さとりとは、自我側から見た現象」とは言えないと思います。

また、悟りには無限の段階があると思いますが、
肉体人間として生きている以上は、
本当の悟り(覚醒)には至っていないことになります。

複数の信頼できる宇宙存在からの情報によると、
次元転換期に目覚めなかった魂は消滅する可能性があるそうです。

あくまでも情報であって私には真偽は分かりませんが、
宇宙のリズムやシステムから考察しても可能性はあるということです。

私は人々の恐怖心を煽っているわけではありません。

人々の意識進化を妨げる思想を流布することこそが
恐ろしいことだと思ったので、敢えて反論させて頂きました。
Posted by アンリ at 2015年03月30日 02:22
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