2010年09月15日

◆チェック3 愛について考えないようになれるか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【愛とは何か。愛とは何かを考えるとき、そこには愛はない。
愛は教えや思考の産物ではないからである。
「愛がある」とか「愛がない」とか論ずる者に愛はない。
そして、愛の何たるかを知らない者である】



「愛」という言葉はよく使われますが、一般的に使われる場合、それは「愛」ではなく、「情」なのです。
ほんとうの愛は、何の見返りも考えないものですし、普遍的であり絶対的なものです。
ほんとうの愛は、「神」と同じような領域のものなのです。
これに対し、情は感情の領域です。
「愛のもつれ」などという表現がありますが、じつは「情のもつれ」以外のなにものでもありません。
情と愛を混合してしまっているために、愛が怒りや憎しみに変わったように思い込んでしまうのです。
前にもいいましたが、普遍的なもの、絶対的なものは、人間の頭では認識できません。
ですから、ほんとうの愛は頭では認識できませんし、「愛がある」とか、「愛が多い」とか、「愛が少ない」などと語ることもありえません。
愛を論じる人は何もわかっていないということになります。
ネオデジタル内観では、神と同じように、愛についてもとりあえず考えないようにします。

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宇宙即我(天人合一)を体験すると、愛と神が同一のものである事が分かる。
神の性質が「愛」だと言っても良い。
従って、神を知らずに「愛」を知る事は有り得ない。
神と言っても「信じる神」ではなく、自らの心の中に体験する神である。
内在神である魂(真我=本当の自分)は愛そのものであり、真の自己発見をした時に初めて人「愛」を知る事になる。
愛は太陽の光のようなもので、万物に平等に与えるものである。
一休さんはその事を悟ったのである。
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特定の人物に与えるのは愛ではなく「情」である。
心理学的に「愛」には様々な形態があるが、アガペー(人類愛)以外の愛(男女愛や家族愛)は本当の愛ではなく「情」なのだ。
愛について語れば一冊の本にしても語り切れないが、そもそも愛は言葉で語れるものではない。
森田健著『ハンドルを手放せ』に、分かりやすい説明があるので引用したい。
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夜は導師にとっておきの質問をしました。
「道教にはキリスト教でいうところの愛という単語はあるのでしょうか?」
即座に答が返ってきました。
「ありません」
やはりないのです。私はこの答に内心、ゾクッとしました。
さて、ここからが面白い点です。
みなさんは聖書のエデンの園の話を知っていますね。
しかしアダムとイブが食べたリンゴ、すなわち知恵の実の本質的意味については不明です。
知恵の実とは何だったのか……。
これは、キリスト教の世界と道教の世界とでは、とらえ方が逆だったのです。
まず、道教の場合を説明しましょう。
道教の場合は、「荘子」という本の中に出ている「混沌説話」が失楽園のそれです。
昔々、オッチョコチョイという王様とアワテモノという王様が住んでいて、日頃お世話になっているコントンという王様にお礼をすることになりました。
2人はコントンがのっぺらぼうなのを気の毒に思い、色々な手を尽くして耳や口を作ってあげました。
すると7日後にコントンは死んでしまいました。おしまい。
どこが知恵の実ですって?どこが失楽園ですって?
解釈をすればわかります。
オッチョコチョイとアワテモノは都会の人間です。感覚器官は知恵のシンボルです。
コントンは田舎の人間です。
その田舎の人間に色々な情報を与えたら、死んでしまったのです。
しかしこの物語をよく読むとわかるのですが、与えた情報は儒教の説く「仁義礼智信」つまり、理想の価値観だったのです。
コントンは知恵を得て死んでしまいました。
アダムとイブは知恵を得て苦しみ始めました。
ところでアダムとイブの食べたリンゴ(知恵の実)の本質は、いったい何だったのでしょうか?
私の推測ですが、それは「原罪」だったのではないでしょうか。
つまり原罪の実を食べてエデンを追い出されたから、彼らは世間に出てからやっと理想の実を食べ始めたのです。
実は人類はいまこれを食べている最中です。
ひょっとすると歴史をかけて食べ続けているのかも知れません。
その先どうなるかは分かります。コントンがたどった結末です。
アダムとイブは生から死に向かっているのです。肉体的な意味ではありません。
精神的な死に向かっているという意味です。
理想の生き方の代表選手である「愛せよ」というスローガンの元、精神的な生から死に向かっています。
「道教に愛はありません」
導師はこう言い切りました。
愛という単語を口にしたとたんに愛が死んでしまうのを知っているのです。

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道教がやること……それは以前のコントンの状態に戻ることです。
つまり顔のないのっぺらぼうの自分に返ることです。
誰でもない自分に返ることです。
キリスト教は生きている元々の状態を罪としています。
だから「ある」がままを発散してしまうと罪を発散してしまうことになるのです。
だから毎日「理想の生き方」という薬を飲んでいます。
それが精神の死につながる薬であることも知らずに。
道教は「理想の生き方」という薬が死につながることを知っています。
だから不老不死を目指す彼らは絶対に飲みません。
何を飲むかと言えば、しいて言えば、それを吐き出す薬です。
吐き出して、何もない状態に戻るのです。
「ある」がままという状態には、混沌説話で言えばまだ耳や口がありそうです。
それらを取り去った状態は「ない」がままとでも言えるのではないでしょうか。
彼らは「ある」がままを通り越し、「ない」がままを目指します。
五官ができる以前の世界に戻ろうとします。
キリスト教が成長だとすれば、道教は退行です。
そう、道教には胎息という修行法があります。
胎児の状態に戻って呼吸をするという修行法です。
これは姿勢さえも胎児に戻った格好をします。


ネオデジタル内観は道教的なメソッドだと言える。
人間が生きる為に最も必要なものは何か……それは前にも書いたが「空気」である。
神や愛というのは空気のようなものである。
人間は神の大愛の中で生かされているが、人間はその事に全く気づいていない。
気づいていない事を頭で理解できるはずがない。
その「真の気づき」を得る為の最短プログラムがネオデジタル内観だと言っても過言ではない。
本当の愛は、見返りを求めず与える一方のものであり、普遍的で無差別で絶対的で、神と同義である。
「愛とは考えて理解できるものではなく、知ることもできず、そして言葉で表現できるものではない」という思いで、内観に取り組んだほうが良い。
posted by アンリ・クリスチャン at 21:26| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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