2010年09月09日

◆チェック4 宗教団体に入っているか、入っていればその理由は何か

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【思想や宗教団体、あるいは精神世界などの組織に所属している人は、
ネオデジタル内観はできない。
どんな理由であってもそれは思考の大きな偏りであり、
その思考の偏りをまず修正しなければならない】


組織というものは、どんなものであれ個人の集まりです。
思想を扱うような組織であれば、偏りのないものの見方はまず絶対にできません。
つまるところ、ネオデジタル内観はできないことになります。
ネオデジタル内観は中道的なところから出発し、中道で終わります。
何かに固執したり、偏ったりしている人が、ネオデジタル内観の最終点である
「真の気づき」「真の自己発見」ができるはずがありません。
「組織には属しているが、私は偏っていない。
組織のイベントには参加しないし、特別な活動もいっさいしていません」
こういう人がいますが、では、その人はなぜその組織に所属しているのでしょうか。
「義理人情的なしがらみがあり辞められない」は、理由にはなりません。
組織の中にいて、偏っていないということはありません。
もちろん、普通の企業のような組織はこれに当てはまりませんし、組織から抜けることが生命をおびやかすことになるとか、家庭のなかでそうしたつながりを持たなければ人間関係が極端にまずくなるという場合であれば、思考の偏りの修正は可能です。
それは、「諦める」という方法です。
諦めてしまって、「自分はこういうふうに鎖につながれているんだ。真意はこうではないんだ」という強固な信念で内観に励めばいいのです。
要は、思考の枠組みを外すことが重要です。
たとえば、鎖でつながれてがんじがらめになって身動きできなくても、気持ちがそこになければよいということです。
とにかく、思考のとらわれを外して自由になっていくことが内観ですから、最初からとらわれていたらどうしようもないということです。

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肥田式強健術の創始者・肥田春充は『宇宙倫理の書』という難解な宗教的科学書を書き残したが、宗教は国民を奴隷にするものだとして猛烈に批判した。
人々を盲信させ、自らの無限力を否定するような宗教がはびこっては、日本は滅びてしまうと言って、新興宗教を徹底的に攻撃したのである。

「私は天下の大無頼漢である。悪党の巨魁である。
けれども天下の生神どもは、私の足元に踏みにじってやる。
悪党に踏みつけられるような神様じゃ、致仕方あるまいな」


大本の聖師・出口王仁三郎は、自らの教団を政府に弾圧させる事で「宗教破壊」の型示しをし、次のように語っている。

「もうこれからは宗教のない世の中になるんや。
しやから神殿なんて必要ない。 石でも積んで拝んどいたらええ」

「わしはなあ、この世でまず仏教を滅ぼす型をやるのや。
それがいろいろな宗教を滅ぼす型になるんや。
宗教というものがないのが、ほんま素晴らしい世の中になるんや」



『日月神示』には次のように示されている。

「教派や教義に囚われるのは邪の教え、早く卒業してくれよ」

「宗教に生きて、宗教に囚われるでないぞ。仕事が宗教ぢゃ。小さいことから始めよ」

「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。形式に囚われなくなるぞ。
真の信仰に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。
今に岩戸ひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ」

「教派や教義に囚われるは邪の教。豚に真珠となるなよ」

「地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思うもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。
うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ」

「死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。
奇跡を見せ、病気を治してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。
それのみで道を説いてはならんぞ。
そんなこと位でマコトのホッコン改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。
今迄のような宗教は滅びると申してあろうが」

「戒律をつくってはならん、戒律がなくてはグニャグニャになると思うであろうなれど、
戒律は下の下の世界、今の人民には必要なれど、いつまでも、そんな首輪はいらんぞ、
戒律する宗教は亡びると申してあろうが」

「歓喜に裁きない如く、神には裁きなし。
裁き説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ。
戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん。
裁きを説くのは自分で自分を裁いていること、人民に罪なし」

「今度は末代動かぬ世にするのざから、今迄の様な宗教や教えの集団にしてはならんぞ、
人を集めるばかりが能ではないぞ、人も集めねばならず、六ヶ敷い道ぞ。
縁ある人は早く集めて呉れよ。
縁なき人いくら集めても何もならんぞ、縁ある人を見分けて呉れよ。
人間一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちにこの神示よく読んでいて呉れよ」

「何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしているのぞ、今の様は何事ぞ」

「キリスト教の取次さん、仏教の取次さん、今の内に改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気付かんのか」

「日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。
今度は神があるか、ないかを、ハッキリと神力みせてイシヤも改心さすのぞ」

「仏には仏の世界はあれど、三千年でチョンぞと申してあらう」

「方便ではどうにもならん。 ぎりぎりの世となっているのぞ
方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みだのざぞ、
いまでも仏の世と思うているとびっくりがでるぞ」

「そなたはまだ方便をつかっているが、方便の世はすんでいるのぞ。
方便の世とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ、仏教もキリスト教も回教もみな方便ぢゃ。
教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となっているのぞ、道でなくてはならん。
変わらぬ太道でなくてはならんぞ。
方便の世はすんでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終わるぞと知らしてあろうが。

「化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。
教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ」

「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申しているが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。
これまでは方便と申して逃げられたが、も早逃げること出来ないぞ」

「七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ。
七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな」

「宗教によるもののみ天国に行くと考えるもの、自分の教会のみ天国に通ずると思うもの、
皆悪の眷族ばかり、迷うなよ、迷うは慾からぢゃ。体験のみ財産ぞ」

「この道は宗教ではないぞ、教会ではないぞ、道ざから、今までの様な教会作らせんぞ」

「信者作るでないぞ、無理に引張るでないぞ、この仕組み知らさなならず、
知らしてならんし神もなかなかに苦しいぞ」

「この神示読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、しかし無理に引張って呉れるなよ。
この神は信者集めて喜ぶような神でないぞ、世界中の民みな信者ぞ、
それで教会のようなことするなと申すのぞ。
世界中大洗濯する神ざから、小さいこと思うていると見当とれんことになるぞ」



宗教というのは宗教法人に限らず、宗教的な教えや倫理・道徳を説く社団法人なども含まれる。
「宗教ではない」と主張する団体や、法人格のない宗教的・哲学的な織も、思想の組織であれば同じことである。
私は義理と調和の為に、やむを得ず某宗教団体に入会しているが、全く関与していないので問題ない。
同じく、義理で入会だけして、組織の人間と一切関わっていないという人は問題ない。
ネオデジタル内観で「本当の自分=内在神」を発見すれば、宗教の必要性はなくなるのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 00:20| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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