2010年09月08日

◆チェック3 あらゆる教えは混乱の元だと思うか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【思想や宗教などの教えや考え方は、どのようなものであっても混乱をともなう。
思想や宗教には教える者と教わる者があり、どちらも正しいことをしていると思っている。
正しさを主張することは調和からまったく外れたことで、
主張と主張がぶつかり合い、そこから争いや混乱が生じる。
思想や宗教が多くなればなるほど、世の中が混乱することを知らなければならない】


思想や宗教をビジネス展開している人たちは論外として、すべての思想や宗教は正しいと信じる自己主張から始まり、最終的には個人の考えが集まったものです。
それがまとまったものが組織であり、その組織を支配する人、または指導者はその正しいと思うところを主張します。
しかし、世の中にどれくらいの教えがあるのでしょうか。
ある主張に賛同しない人は、組織の外に必ずいますから、主張と主張がぶつかり合って混乱が生じ、それが闘争や破壊を誘発します。
ですから、宗教や思想、あるいはどれほど立派そうなことをいっていても、自己主張(組織主張)する人が多くなればなるほど、世の中が混乱するという事実を認めないわけにはいきません。
歴史を振り返ってみても、これは明らかな事実です。
社会の混乱や環境の破壊、戦争などは、すべてそうした思想の混乱から起こっています。

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これはSTEP2の延長なので詳しい解説は必要ないと思うが、本物の教えは本当の自分である真我(魂)から得るものである。
その為の「ハイパーネオデジタル内観」であることを忘れないで頂きたい。
釈迦やイエスは悟りを開いた後に教えを説いたが、教えはあくまで教えであって悟りとは全く違う。
教えは「知識」であり、悟りは「体験」である。

老子は次のように語っている。
「道が語りうるものであるとすれば、それは不変の道ではない。
もしそれが語られるものなら、人はみな兄弟たちに語っていたであろう」


故に、タオイストは理性や論理に強い不信を持っている。
仏教から生まれた「禅」もタオイズムの影響を受け、「言葉なし、説明なし、指示なし、知識なし」という体験主義で、「ある事について語った途端、見当外れになる」とされている。
仏教では体験による知識を「般若」と呼び、それは「あるがまま」の至高体験であり、この究極のリアリティは言葉や概念では適切な表現が不可能である。

「そこには目も届かず、言葉も心も辿り着けない。どうしたらそれを教えられるか」
(『ウパニシャッド』)

合理主義の物理学者ハイゼンベルクも、このように述べている。
「その言葉や概念が、いかに明白に見えようとも、限られた範囲しか適用できない」
「言葉の問題は誠に深刻である。
どうにかして原子の構造について語りたいと思うのだが、通常の言葉では原子の世界を語ることは不可能だ」


仏教学者の鈴木大拙は次のように述べている。
「仏教的な体験が仏教哲学の基盤であります。
悟りの体験の意味を探る弁証法がいかに発達しても、仏教は根源的には経験論的もしくは体験主義的なものなのです」

「言葉を本源から超越する内的な体験を伝達するためには、言葉を使わざるを得ないので、ここに理解しがたい矛盾が生ずるのです」

政治・宗教評論家の赤間剛氏は、次のように述べている。
「東洋の神秘思想が知識を経験によって裏づける点は、科学が実際によって裏づけるのに類似している。
この思考は『観る』こととして知られる。知ることは『観ること』なのである。悟りとはまさに観ることなのだ。
彼らの寺院が『観』と呼ばれていたことでも明らかである。仏教の八正道の第一は『正しく観ること』である」


様々な思想や教えの中には、その教祖や提唱者の自我による考えや仮説も含まれている。
それを真理だと信じる行為ほど危険なことはない。
仮に、「真理」だったとしても、それぞれの教えはその断片に過ぎない。
我々の身の周りの様々な物体も、角度によって形が全く異なるのと同じである。
同じ物体でも、角度によって円に見えたり、長方形に見えたり、正方形に見えたりもする。
それを円だと信じる人、長方形だと信じる人、正方形だと信じる人がいる。
思想や宗教などの教えが混乱や争いを起こすという意味がお分かりだろうか。

或いは様々な教えを採り入れて、円であり長方形であり正方形であると信じ、自分自身で混乱している人も少なくない。
次元が上がれば全体が見えるようになってくる。
その時に初めて様々な教えの意味が理解できるのである。
それが悟りであり、悟る為の方法が「ハイパーネオデジタル内観」なのだ。
その為に、宗教や思想などで得た知識はもちろん、あらゆる既成概念や固定観念を外さなければならないのは道理である。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:42| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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