2010年09月07日

◆チェック2 宗教や思想にとらわれがないか

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


【どんな宗教や思想でも、真理を発見することはできない。
そこにあるのは、一時の慰めと偽りの愛である。
宗教や思想などに慰めやこだわり、とらわれなとがある場合は、
まずそれらを取り除いてからネオデジタル内観にとりかからなければ、絶対にうまくいかない】


なぜ宗教、哲学、思想、それに信じる教義などがあると真理に到達できないのでしょうか。
それは、宗教、哲学、思想などに関心があること自体、何らかの慰めをそこに求めているからです。
多くの人には、「幸せになりたい」とか「安定したい」という願望があります。
そうした願望は「慰めを得たい」という願望です。
「慰めを得たい」という願望を満たす一番の近道は、宗教や思想にのめり込むことです。
のめり込めば、他に何も考えることはありません。
求めていた独りよがりのやすらぎや、自己満足の安定は獲得できるでしょう。
しかし、それが調和的かどうかについては、まったく別問題です。
現実直視はできなくなり、「真の気づき」はとても体得できません。

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私は『日月神示』を柱として、オコツトの「ヌース理論」や「アリオン・メッセージ」、マーフィーや生長の家の「ニューソート(光明思想)」、ヒトラーの「超人思想」や「もりけん理論」などを検証してきたが、ネオデジタル内観をする時は一切の哲学的思想や宗教的教義を手放して、固定観念や既成概念を捨てて取り組んだ。

『日月神示』にも「神示捨てよ」と度々示され、次のようにも示されている。
「教は教に過ぎん。理でなくては、今度はならんのぢゃ。天の理、地の理、
もろもろの理、カタ早う急ぐぞ。教は局部的、時、所で違ふのぢゃ。迷信となるぞ。
思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ」


結果的に、私は宇宙の真理を悟ることが出来たのである。
学んで信じる思想や教義は「心の澱」「知識の垢」であり、魂の手枷足枷となって「信念体系領域」と呼ばれる幽界から脱出できず、高い霊界に上昇する事はできないのである。
posted by アンリ・クリスチャン at 13:52| Comment(0) | 第4章「ネオデジタル内観」実践法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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