2010年05月14日

世界平和の実現は内観から(By.アンリ)

少し宗教色の濃い話になってしまうが、前項の「学」についてもう少し補足説明しておきたい。

うぬぼれは人間性を下げるという事だったが、うぬぼれとは「慢心」の事である。
聖書によると、神に次ぐ天使長ルシファーは、慢心によって堕天した。
この話はあくまでも寓話だが、慢心が大罪である事を物語っている。
この堕天神話が我々に教えてくれる事は、慢心から嫉妬や怒り、悲しみなど、
様々な魔界的想念が生み出されるという事である。
そして、波長一致の原理(類友の法則)によって、知らず知らずのうちに、
幽界霊に精神や人生を支配されるようになるのだ。

『日月神示』には、次のように示されている。

「取違ひ慢心一等恐いと申してあろが」
「取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ」
「そなたはよく腹をたてるが、腹がたつのは慢心からであるぞ」


その慢心は「自我」の働きから生まれ、自我からは様々な欲望が生み出される。
釈迦やイエスが闘ったサタンの正体は、この「自我」なのだ。
自我意識は左脳の所産であり、知識を詰め込むという作業は左脳を主体として生きることになる。
つまり、「頭でっかち」というのは左脳偏重の事で、知識を詰め込むばかりでは健全な精神を保つことは出来ないのである。

アーリオーンは次のように言っている。

「知識は両刃の剣だ。使いこなせない知識は害になる。
使いこなせた時に知識は、その人特有の知恵となり、その人を助けるだろう。
知識は多ければいい、というものでは無い。
それを使いこなすだけの勇気と努力と根気と、それを取り入れる時の直観力が必要だ」

「自らの心に積もった、澱のような知識の断片をいつまでも手放さないでいると、
真新しい智慧は育たない」


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引き続き、『日月神示』を見てみよう。

「学が勝ちたら従ってやるぞ
「金や学や智では大峠越せんぞ」
「鉄砲や智では悪くするばかりぞ」
「今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ」
「学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ」
「我よしと云ふ悪魔と学が邪魔している事にまだ気づかぬか」
「智出すから、学出すから、我出すから息詰まるのぞ
生れ赤児と申すのは智も学も我も出さん水晶のことぞ」
「学が人間の智恵と思っていると飛んでもない事になるぞ」
「我れが我れががとれたら判ってくるぞ、慢心おそろしいぞ」
「学に囚はれてまだ目覚めん気の毒がウヨウヨ。気の毒ぢゃなあ」
「神示読まないで智や学でやろうとて、何も、九分九厘でりんどまりぞ」
「何うにもならんと知りつつまだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは
申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ」
「人間心すてて仕舞て、智や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず
生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教守ることぞ 」
「学と神の力との大戦ぞ、神国の神の力現わす時が近うなりたぞ」
「何もかも悪の仕組みは判りているぞ、いくらでも攻めて来てござれ、
神には世の本からの神の仕組みしてあるぞ。
学や智恵でまだ神にかなうと思うてか。神にはかなわんぞ」
「戦済みたでもなく、済まぬでもなく、上げも下ろしもならず、
人民の智や学や算盤では、どうとも出来んことになるのが目に見えているのざから、
早う神の申す通り素直に言うこときけと申しているのざぞ」


『日月神示』は、出口王仁三郎が直受した『伊都能売神諭』の続編だとされいているが、
それには次のように示されている。

「邪神界の悪神の頭が昔からの永い陰謀で、学と智慧と金の力とで、
世界中を自由自在に混乱(みだらし)て来て、今度のような大戦争を起こして
世界中の人民を困(くるし)め、人民の心を日増しに悪くいたして
自己の目的を立てようと致し……」


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結論から言えば、智や学は、神に敵対する「悪魔」の道具であり、
世界を混乱させて戦争に導くものなのだ。
智や学は、自我と同じく「左脳」が司っているが、左脳は「体主霊従主義(唯物思考)」、
右脳は「霊主体従主義(唯心思考)」である。
これを神示では、前者を「悪魔」、後者を「神」と呼んでいるのである。
前者を「自我」、後者を「真我(ほんとうの自分)」と言い換えても良い。

そして、前者が生み出したものが「西洋科学文明」で、
後者が生み出したものが「東洋精神文明」だった。
神と悪魔の最終戦争とは、地球規模で見ると「東洋」と「西洋」の衝突なのだ。
ところが、東洋でも智や学が重視され、物質科学を発展させてきた。
前述の「智や学は、神に敵対する悪魔の道具であり、世界を混乱させて戦争に導くもの」
を個人に置き換えて考えてみてもらいたい。
智や学による左脳偏重、自我の増大が自分自身を混乱させ、狂気へ駆り立てるのだ。
「狂気」というと大袈裟に聞こえるかも知れないが、日常生活の中での欲望、不平不満、
慢心、嫉妬、怒り、悲しみ……等の悪想念こそ、戦争以外の何ものでもない。

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ハルマゲドンの原因を、『日月神示』は次のように指摘している。

「戦恐れてゐるが、臣民の戦位、何が怖いのぞ。
それより己の心に巣くうている悪のみたまが怖いぞ」


「戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない。
世界中の洗濯ざから、いらぬものがなくなるまでは、
終わらぬ道理が分からぬか。
臣民同士のいくさでない、カミと神、アカと赤、
ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。
己の心を見よ、戦が済んでいないであろ。
それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ。
早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一」


「人間のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふていたら
大きな間違いざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ。
あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、
早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ。
肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や禍は見当とれまいがな。
世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、
この道理わかりたか」


「世界がそなたに映っているのぞ。世界見て己の心早う改心されよ」

つまり、ハルマゲドンとは自我と真我の衝突であり、それによって胸の岩戸が開け、
真我が目覚める(キリストの再臨)ということなのだ。
だからと言って、左脳(自我・知識)を邪悪なものと敵視するのではなく、
右脳とのバランスが重要なのである。
これは交感神経と副交感神経のバランスに置き換えることもできる。
釈迦はその事を「中道」と呼び、それが「ニュートラル思考」なのだ。
その為に最適な方法がハイパーネオデジタル内観」なのである。

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少し長くなるが、引き続き『日月神示』から抜粋する。

「学や智がいらんと申しても、学や智が要らぬのではないぞ。学や智も要るのざぞ」
「そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ」
「悪殺してしまうのではなく、悪改心させて、ミロクの嬉し嬉しの世にするのが神の願いざから、この道理忘れるでないぞ」
「わが身をすてると申すことは我をすてること、学をすてることぢゃ。
すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ」
「人の心から悪を取り除かねば神に通じないと教へているが、
それは段階の低い教であるぞ」
「大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせているのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが」

「悪を悪と見るのが悪」
「悪も御役であるぞ。この道理よく腹に入れて下されよ」
「悪も神の御働きと申すもの、悪にくむこと、悪ぢゃ。
善にくむより尚悪い。何故に判らんのか」
「悪いこと通して善くなる仕組、よく心得よ」
「悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、
悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ」
「悪もよいなれど、悪も神の用(ハタラ)きであるなれど、
悪が表に出ること相成らん。
悪を食ふて暮らさなならん時近づいたぞ、悪を噛んで、よく消化し、
浄化して下されよ、悪は善の仮面をかぶっていること多いぞ、
だが悪も大神の中に生まれたものであることを知らねばならん」

「善のみにては力として進展せず、
無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、
悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。
何故ならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、
法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、
この行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の善悪となすことによって、
三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる」

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「神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊に地上人はこの善悪の均衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、
悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善はなくなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だと思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである」

「人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、
それは段階の低い教であるぞ。
大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。
抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。
抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが、今迄の教は今迄の教」

「悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。
何故ならば、それがある為に弥栄し、進展するからである。
悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである」
「悪も元を正せば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、憎むと善でなくなるぞ、天地にごりてくるぞ」

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「地上人は絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。
この場合、この平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超大平衡にと進み行くことを弥栄というのである。
左手は右手により生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生まれ、神に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである」

「今日までの御教は、悪を殺せば善ばかり、輝く御代が来ると云ふ、
これが悪魔の御教ぞ。
この御教に人民は、すっかり騙され悪殺す、ことが正しきことなりと、信ぜしことの愚かさよ。
三千年の昔から、幾千万の人々が、悪を殺して人類の、平和を求め願ひしも、
それははかなき水の泡、悪殺しても殺しても、焼いても煮てもしゃぶっても、
悪はますます増えるのみ、悪殺すてふそのことが、悪そのものと知らざるや、
神の心は弥栄ぞ。
本来悪も善もなし、ただ御光の栄ゆのみ、八岐大蛇も金毛も、邪鬼も皆それ生ける神、神の光の生みしもの、悪抱きませ善も抱き、あななふ所に御力の、輝く時ぞ来るなり、
善いさかへば悪なるぞ」


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釈迦とイエスは瞑想中、悪魔の誘惑を受け、それを撃退して悟りを開いた。
この悪魔というのは「自我」の事であり、悟りとは「真我」に気付く事である。
真我を「魂」と呼び換えても良いが、黒住教祖の黒住宗忠は
それを「天照大神の分魂」であると説いた。
天照大神は太陽神であり、イエス・キリストも太陽神の受肉を名乗った。
天照大神が隠れた「天の岩戸」とは、人間の胸に存在する。
そして悟りを開くと岩戸が開け、天照大神(魂)が光り輝く。
これが「キリストの再臨」の真意であり、仏教では「弥勒下生」という。

イエスはミトラ教の太陽神ミトラに比定され、ミトラ教は初期キリスト教に大きな影響を与えたが、
ミトラは仏教にも取り入れられて「マイトレーヤ」と発音され、弥勒菩薩もミトラを語源としている。
キリストは「救世主」という意味だが、「ミトラ=マイトレーヤ=弥勒」も救世神であり、
呼び名は違えど同一の至高存在を指している。
それが「真我」であり、真我に目覚めた人を仏教では「仏陀」と呼ぶ。
仏陀は真我に目覚めた人であるが故に「キリスト(救世主)」であり、
人間は本質的に誰もがキリストなのだ。

さて、『日月神示』では「悪を取り除くのではなく、
抱き参らせよ」と説かれているが、
釈迦も悟りを開く時に「悪魔」を抱き参らせている。

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世界平和の第一歩は、自らの心の平和と安寧の実現からである。
自我に生きる者が世界平和を唱えるのを「偽キリスト」という。
真我に目覚めぬ者が世界平和を唱えるのは、
戦争仕掛け人が反戦運動をするのと同じようなものである。
posted by アンリ・クリスチャン at 09:36| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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