2010年05月13日

ネオデジタル内観で「コピー人間」だった自分を発見した

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


現実を直視し、「真の気づき」「真の自己発見」を体得するための技術がネオデジタル内観ですが、ネイデジタル内観ではイメージや従来の思考、先入観や価値観が大敵です。
それらに惑わされているかぎりネオデジタル内観は実行できませんし、「ほんとうの自分」を見つけることはできません。
イメージや従来の思考、先入観や価値観といったものは、アナログ思考です。
それに対し、ネオデジタル内観での思考はデジタル思考です。
アナログ思考とデジタル思考については次項で触れることにして、ここでネオデジタル内観を実施して自分を見つめなおした人を紹介しましょう。

その方から次のようなお手紙をいただきました。
「……振り返ってみると私は、本や新聞に囲まれて育ってきました。
両親は、私が外で友達と遊ぶことより、家で本や新聞などを読んだり、
勉強していることを好みました。
家には社会的な問題を取り上げた本や新聞がたくさんありましたが、
私はそういう文章を読みのが好きでした。
日本で育った子供が日本語を話し、アメリカで育った子供が英語を話すように、
私は自然に社会的な問題について話せるようになっていました。
別の言い方をすれば、常に新聞を読み、時事に通じていて、それについて討論できなければ、我が家の一員として認めてもらえないという空気がありました。
たくさんの本を読み、知識を持っていれば、まるで本当にそのことがわかっているかのような気になります。
自分は何一つしていなくても、何かやっている気になります。
知識が多くそれなりのことが喋れれば、まるで立派な人になったような気になります。
そして、多くの人がそれをほめたたえ、先生と呼んで教えを請うたり、頼ったりします。
ある日突然、『私はコピー人間だ』と気づきました。
頭の中にいろんな人の書いた文章が入っていて、必要となればそれらを引っ張り出してきて、組み合わせて、キーワードをちりばめて、それなりの文章を作ってしまいます。
よくできたゴーストライターのソフトみたいです……」


それまでこの方は、「ほんとうの自分の姿がつかめない」、「何を聞いても話しても実感が湧いてこない」という悩みがありました。
しかし、その原因をネオデジタル内観でつかみました。
「コピー人間としての自分」と決別し、「コピー人間の人生」から「ほんとうの自分の人生」へ歩き始めたのです。
自分で書いた文章のつもりでしたが、今思えば、それ本当の自分の文章ではなかったのです。

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このサイトは、山本健二氏の『絶対変換』を丸ごとコピーしたものである。
だが、その「コピー」は全く意味が違う事はお分かり頂けると思う。
私は「神仙組」というブログも書いているが、様々な研究家の仮説の上に成り立つ仮説である。
それは、コピーと言えばコピーだが、結論はオリジナルのものである。
学問というものは常に仮説の上に成り立つものなのだ。
だが、それは自分で書いたものだとは思っていない。

世の中には人の仮説を、言葉を換えて自分のものにする人が多い。
だが、私はそのような事はしないので、引用が多い文章となる。
それは引用している事を公にする事で、説得性を高める事にも繋がっていると思う。
全文を自分の言葉で書く事も可能だが、私は人の功績を自分の手柄には出来ないし、
また、引用なしには説得性に欠けるからだ。このサイトにしてもそうである。
私が自己発見をした経緯を書けば良いだけだが、敢えて『絶対変革』を原典しにした上での参考書のような形態とした。

新しい仮説を生むインスピレーションを得る為には、下地となる「情報」「知識」というものが絶対的に必要となる。
そして、定説や通説に疑問を持ち、様々な分野から多角的に検証し、瞑想中や夢の中でインスピレーションを得たり、ほぼ無意識の状態で執筆を進めている事もある。
だが、その為に、かなり徹底した情報収集や研究をしているのである。

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エレキギター、自動炊飯器、自動湯沸器、自動ドア、CTスキャン、魚群探知機、歯科治療用ドリルなどを発明した、故・政木和三工学博士は、著書『人類を救うヒット商品開発法』の中で次のように述べている。

「当たり前と思っていたことや疑問に思っていたことを、もう一度考え直す習慣が、
新しい発想を生み、ヒントを得て、発明や新製品開発の源になることをしみじみ感じた。
特に私の場合には、あらゆる分野の基礎知識があったことが、発明することには幸いしていると思っている」


「私は現在まで1000件近い発明、開発品を作り出してきた。
なかでも、私が超科学を研究、実験して、自らもこの世界に入るようになってからというもの、私の新製品の発明、開発は10秒間で基本が完成している。
そして、これらは全て、脳波がシータ波になったときの現象である。
ただ、私の場合、若い時から工学部、医学部での勉強を続けてきているので、
発明、開発の受け皿があったためであろうと思っている」


だが、インスピレーションは「与えられたもの」であり、完全なオリジナルは世の中に存在しない。
他人のコピーではない発想や新説も、コピーと言えばコピーなのだ。
政木氏はインスピレーションで得た発明品について、次のような啓示を受けている。

「汝うぬぼれるな。汝の作ったバイオライトは1億年前、別の世界にあったものである。
汝の頭の波動と一億年前の波動が合った為にその設計図が映っただけである」


政木氏はこう言っている。
「人間はうぬぼれると人間性がどーんと下がります」

Aoyama_Masahide_Sai_Baba.jpg

『真実のサイババ』(青山圭秀著/三五館)には、次のように書かれている。

「サイババは、学士号(Bachelor's Degree)を略してBAD、
修士号(Master's Degree)」を略してMADと言うことがある。
実際、高学歴になるほど、失われるものも確かにあるように思われる。
もちろん、サイババは教育や学歴そのものを悪いとは言わない。
人格教育こそが、教育だと言い続けているのである。
修士号の上には博士号があり、それこそは、学問の世界における最高の位である。
これについて、サイババは何も言っていないようである。
ところが、この博士号(Doctral Degree)を略すと、DOGになってしまう。
サイババの周りには、真の意味で人格を兼ね備えた博士たちがたくさんいるから、
このたとえは広まっていないのだろうか……」

「私の知る限り、サイババは学歴というものをむやみに否定したりしない。
若者が大志を抱くことも、社会の階段を駆け上がることも否定しない。
そうして、自分の国できちんとした教育を受けることを勧めるような健全さがある。
ただ、多くの国で行われている教育が知識偏重であることについては、
はっきりと苦言を呈するのである。
空の袋にものを詰め、またそれを取り出して空にするという表現は、
過剰な暗記を強いられる日本の生徒たちを連想させる。
われわれは心のどこかで、教育とは頭を訓練し、知識を蓄えるものだと思っている。
教育はまた、将来の生活基盤を確立するためのものだとも、一般に信じられている。
教育には、そうした側面が実際にある。
しかしサイババは、教育は生命のためのものであり、生計を立てる為のものではないというのである」

『もしも、人の受けた教育がハートを耕さず、文化の裏打ちのないものであれば、
彼は最初から教育を受けていない者よりも劣る。
ハートを開き、真我を解き明かすものだけが、教育の名に値する。
真の教育は謙遜の心を与え、そこからあなたの価値が生まれ、霊的な世界だけでなく、この移ろう世界でも幸福を得ることができるのだ』

posted by アンリ・クリスチャン at 04:32| Comment(0) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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