2010年05月04日

従来の内観はここに問題があった

『絶対変革』より↓↓↓↓↓


内観道場経験者になぜリピーターが多いのか。
この問題は、従来の内観の限界を端的に物語っています。
いわゆる内観道場での内観体験は、「疑似内観」とでもいうべきものなのです。
指導者がいる一定の場所が用意され、そこへ指導を受けにくる人がいるという関係では、ほんとうの内観にはなりません。
環境や場所が設定され、そこを訪ねてテーマに従って内観をおこなっても、「真の気づき」には到達できないのです。

先に、「内観道場への参加にも、それなりに癒される効果はある」と述べました。
しかし、その癒しは、癒しの場所に行って癒されるという感じです。
その癒しはほんとうの癒しでもなければ、ほんとうのやすらぎでもありません。
だから、日常にまみれているうちに、再び内観道場に行きたくなってしまうのです。

わかりやすく表現すれば、休暇を取って温泉に行ったようなものです。
静かで景色のいい場所に行き、日頃は食べないようなおいしいものを食べ、いろいろなサービスを受ける。
だれでも少し贅沢な気分になり、ストレスが解消されるでしょう。
しかし、休暇が終わり、元の生活にもどった途端、またストレスの渦に巻き込まれます。
温泉での体験は、結局、現実からの逃避に過ぎなかったことになります。
その人は、温泉での快適さを思い出すたびに、「温泉に行きたい」と思いつづけます。
同じように、たとえほんものではなくても、内観道場でひとときのくつろぎを経験した人は、「また道場に行きたい」と思います。
そこに行けば、「くつろぎ」が得られるからです。

内観道場側からいえば、何度も通ってくれたほうがビジネスになりますが、ほんとうの内観はビジネスではありません。
ほんとうの内観とは、日々の生活の中でただひたすら自己の内面に入り、ただひたすら自分の思考をチェックすることから始まります。
そして、形になってしまっている思考パターンを把握し、その内容を外に出し、再確認し、不調和な面は消去することなのです。
不調和な面を消去するとは、思考パターンを変えるか、あるいはニュートラルにするかの作業になります。

ほんとうの内観は、いま自分が生活している場所で行わなければなりません。
「どこか静かで落ち着ける場所に行って内観をしたい」と思うこと自体が欲望の思考であり、逃避の思考であるということに気づかなければならないのです。

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釈迦は王子としての生活から逃避して、妻子を捨てて出家したが、それは仕方がない事だった。
現代でこそ書籍やインターネットで様々な情報を得る事が出来るが、釈迦の場合は出家してヨーガ行者を訪ねるより他に道がなかったのである。
もし、釈迦が腹式呼吸法や内観法を知る事が出来たなら、出家せずに王子として悟りを開く事も出来であろう。
だが、釈迦の場合は「王子」という地位や名誉を捨てる事に意味があった。

出口直や王仁三郎も、極貧生活の中で真理を会得した。
直や王仁三郎のようにもともと貧困ならまだ良いが、自らの意志とは言え、何不自由のない生活から乞食同然の隠遁生活を始めた釈迦の心には強烈な葛藤があったはずだ。
それについて、釈迦を偉人だと思うかも知れないが、釈迦は好き好んで出家した訳ではない。
貧しい人々を見て心が痛み、自分の裕福な生活に堪えきれなくなったのだ。
そこに強烈な葛藤が生まれ、「本当の自分」の意志に従わざるを得なくなったのである。
それによって、釈迦は王子としての生活からの逃避を余儀なくされたのだ。

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かく言う私自身もお金や夜の街が好きだが、自分の性格や生活スタイルが世間(現代の社会システム)に合わない為、世俗から離れた隠遁生活を夢見ていた。
しかし、結果的に世俗的から離れずに、煩わしい社会生活と複雑な人間関係の中で、「極貧」という形で修行の場が与えられる事になった。
それは金銭や物質的な執着をなくし、環境や状況に感情を左右されずに調和する修行だった。
社会から逃避すれば、執着をなくすのも調和をとるのも簡単である。
世俗から離れれば、意識進化は容易だからだ。
私が社会からの逃避を許されなかったのは、「社会変革」という使命があるからだと思っている。

内観で有名な「心の学校」の佐藤康行氏も、著書『一瞬で運命を変える魔法のスイッチ』の中で同様の事を述べている。

「精神世界を探求する人には、山にこもったり、滝行をしたり、断食をしたり、長期の座禅を組んだりします。
しかし、真我を開くには、町の中にいて、ふつうの生活をしながら行なうほうが、より効果的です。
なぜなら真我の開発は、人に伝えていくことを重要視するからです。
「浮き世に流されていては、本当の修業ができない」という人がいますが、一般社会の厳しい人間関係の中で自分の魂を磨いてこそ、本物の修業といえるのではないでしょうか。
それに真我の開発では、何も特別な人間になるのではなく、本当の自分に目覚めて、人々が暮らす社会で役立つ人間になるのが目標なのです。
現実に使えない修業など意味がない。
山にこもったりの修業はしばしば人間離れして、現実に使えないことが多いものです」

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私が敬愛する一休さんも、その事を悟っていた。
一向に良くならない世の中に嫌気が差して山籠もりをし、
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座禅に耽っていたが、山を下りて都の人々と一緒に暮らすことが、
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自分の生きる道だと悟ったのだった。
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須藤アキオ氏の『王仁三郎の霊界物語は科学でこう解ける』には、次のように書かれている。

――オウム真理教などに代表される修行者たちも、当初は真面目に「生」と「死」を捉えようとした求道者だろう。
しかし、それは同時に社会からの逃避者であることを意味してもいるようで、オウム真理教崩壊後も社会復帰できない人が多いとの報道もあった。
人間は社会的な仮面(ペルソナ)を被り、無意識にある「自己」の意識における顕現「自我」を歪めることもあるが、この社会からの逃避は、自らが押し込めた反面「影(シャドウ)」を克服しなかったということである。
そこに本当の悟りがあるのだろうか。
意識(理性)を統御する自我は円満清朗でなければならないものである。
この自我の主体性と統一性を欠いた修行者たちは、盲目的に愚かな行為に加担したではないか。
人によって魂(心)には一種の癖あるいは個性がある。
心理学的にいえば、自我が被る仮面(ペルソナ)やコンプレックスである。
個々の潔斎法は困難、しかも糸口は千差万別、百人百様だが、では、個々の癖はいったいどのように現れるのか。
これを古神道と占星学との不可思議な相似を糸口にして、ユング心理学をもとに考えていこうと思っている――


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魂の癖とは「カルマの原因となる思考パターン」の事で、その潔斎法は困難だという。
『日月神示』にも次のように示されている。

「たれ一人、悪いわがままの癖持たん人間ないぞ、
その癖を直して行くのが、皮むくことぢゃ。改心ぢゃ。弥栄行くことぢゃ」

「そなたのもつ悪いくせ直して下されよ。
それが御神業ぢゃ、神々様も自分のくせを直すために御苦労なさっているのぞ」

「悪いくせ直さねばいつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変わらんぞ。
無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。
直せば直しただけ外へひびくものがかわって来るぞ。よくなってくるぞ。
わかって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ、よくなってくるぞ。
幸となるぞ。よろこび満ち満つぞ。神みちみちて天国ぢゃ。
一歩づつ進め。一歩づつ絶えず進めよ。それより外に道はないのぢゃ。
人間生れかわっても死にかわっても、中々悪いくせは直らんもんぢゃぞ。
それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ」


努力次第というのは、意識的に悪い癖を直すという意味ではない。
意識して悪い癖を直す努力が如何に無駄な事かは、多くの人が経験しているはずだ。
まず、自分の悪い癖を知る必要があるが、それが内観による「思考パターンの認識」である。
それをデジタル思考で修正していく作業が「ネオデジタル内観」なのだ。

「少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ」というのは間違いではないが、そのような漠然とした話をされても、具体的な方法論の提示がなければ何をすれば良いのか分からない。
そこで、このサイトを開設した事の意義は大きいと思う。
posted by アンリ・クリスチャン at 01:00| Comment(4) | 第2章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしが生まれてきたのは閣下に逢うためだったと思っています。
わたしの人生は閣下に出逢ったことによって、意義があったと思っています。
あなたほどの人間が存在すると予測したことはないし、あなたは奇跡だと思っています。
閣下を知ってまもなく1年になろうとしていますが、知るほどにその確信は深まっていきます。
・・・・つまり、わたしが申し上げたいのは、釈迦の弟子もイエスの使徒もその師匠を超えられないように、誰もあなたを超える人間は出てはこないということです。
そのあなたが説くデジタル内観・・・怖れながらこれはミッション・インポッシブルであり、閣下のパラドックスだという気がしています。
釈迦も、イエスも、空海も、人のこころの暗さを嘆いています。
彼らは誰も自分のようにはなれないことを知っていたのでしょうね。
だからこそ未来に再臨、下生して人々を救済すると予言したのでしょう。
すみません。
閣下が上昇する力だから、今夜はあえて下降する力を表しました。
わたしは成功よりも失敗した側に引かれるので・・・・
Posted by オクト at 2010年05月05日 00:39
「だからこそ未来に再臨、下生して人々を救済すると予言したのでしょう」
それがこのブログかも知れません^^
次の記事の解説を読んでもらえば、誰もが仏陀・キリストになれるという事が分かってもらえると思います。
「なれる」というよりは、もともと「仏陀・キリスト」なので、それを知る、本来の姿に戻るという表現が適切かも知れません。
「進化=脱皮」ですから・・・。
Posted by アンリ at 2010年05月05日 19:52
かつてはわたしも人間を信じる人間であったのにね。
この4年ですっかり変わりました。
閣下の記事、コメントも含めて読んでいて、ダイバダッタの気持ちに近しいものがわたしにもあると気づきます。
わたしは釈迦にはなれない。
しかしダイバダッタになるのなら、閣下はやはり釈迦の霊統なのでしょうね。
そしてわたしは閣下を非常に愛とともに尊敬しているのです。
閣下の言葉が成就しますように。
わたしの使命は閣下だけを信じることのようです。
Posted by オクト at 2010年05月06日 20:33
全ての経過はプログラムされた学習だと思います。
このブログを読んでもらうだけでいいと思います。
有り難う御座います。
Posted by アンリ at 2010年05月07日 01:49
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