2010年03月29日

自己発見の真の意味を問う

『絶対変革』より↓


あなたにとって何が大切ですか

やすらぎと穏やかさに満たされた空間……。
安定がそこにあり、よろこびが感じられる時間……。
そうした時間をあなたは得たいと思うでしょうか。
何事が起きても冷静さを失わない平常心と中道の心……。
しかも迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……。
そうしたさまざまなものを身につけたいと思うでしょうか。

あなたは何が大切で、何が重要なことと思っていますか?
ある特定の人ですか、特定のモノですか?
特定の場所ですか、それとも……?
自分にとって何が大切で、何が重要か考えたことがありますか?

毎日が健康で、楽しく生活できればそれでいいと思っているのではないですか?
まず第一に自分のことについて考え、そして次に家族や友人のことを考えるのではないでしょうか?

いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で、自分の好きなことや楽しいことを考え、そのイメージや目標に向かって進もうとしているのではありませんか?
そのイメージや目標が達成されるかどうかは別にして、たえず自分にとって都合のいいことばかりを考えているのではありませんか?

うれしいことや楽しいことは、できるかぎりたくさんあったほうがいいと思っているのではありませんか?
また、そのほうが幸せだと考えているのではありませんか?
何かうまくいかなかったり、思い通りにならなかったら、イヤな思いをしたり、憂鬱になったりするのではないでしょうか?

そして、体調を崩して病気になったりすると、健康になることを願い、治療法や健康法などいろいろなことを試してみたりするのではありませんか?

人間関係でも、他人に引け目を感じると、そのコンプレックスをなくしたいと思うのではありませんか?
お金儲けができて、望んでいた物質的なものを入手していろいろなことができるようになると、さらに「もっともっと……」と願望を膨らませていくのではないでしょうか?


転載終了

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分割して私の見解を述べたいと思う。

「やすらぎと穏やかさに満たされた空間……。
安定がそこにあり、よろこびが感じられる時間……。
そうした時間をあなたは得たいと思うでしょうか」


半覚醒すると、それは揺るぎないものとなり、
常に至福の状態でいることが出来るようになるが、
これもネオデジタル内観の賜物だと思っている。

「何事が起きても冷静さを失わない平常心と中道の心……。
しかも迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……」


半覚醒すると、他者を自分として見るようになるが、
その自分自身を他者のような感覚で見ている別の視点を獲得する。

つまり、この世が「夢」であることを認識しているため、
映画を観ているような感覚で生きるようになり、
何事が起きても冷静さを失わない平常心となる。

中道の心についても、半覚醒すれば自ずとそのようになるが、
半覚醒に到るまでの生き方の指針として、
「中道の心」とはどのようなものかを学んだ方がよいと思う。

釈迦も半覚醒メソッド(ヴィパッサナー瞑想)を指導すると同時に、
自らが悟った真理を説いていた。

その中に「中道」という概念があるが、
私自身も「ニュートラル思考」というものを学んでいた。

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「迅速な判断力と調和的な決断力、さらに調和的な実行力……」

私は直感型タイプなので、もともと迅速な判断力はあったが、
ネオデジタル内観でも強化されたと思う。

決断力と実行力が調和的かどうかは、
「中道」であるかどうかの問題である。

従って、マクロで見れば調和的であっても、
ミクロで見れば調和的とは限らないこともある。

つまり、中道から離れて両極に位置する人からすると、
調和的ではないと評価されることもあるが、
他者の意見に惑わされずに自分軸がブレなければ問題はない。

中道の心(ニュートラル思考)の獲得とは、
自分軸を中心点に確立することでもある。

また別の例を挙げれば、
「創造」の中には小さな破壊と小さな創造が含まれているが、
その破壊の部分だけを見て「不調和」というのはナンセンスである。

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「あなたは何が大切で、何が重要なことと思っていますか?
ある特定の人ですか、特定のモノですか?
特定の場所ですか、それとも……?
自分にとって何が大切で、何が重要か考えたことがありますか?」


これが今回のタイトルにもなっているも重要なテーマだが、
長くなるので詳細は改めて述べたいと思う。

「毎日が健康で、楽しく生活できれば
それでいいと思っているのではないですか?」


毎日が健康で楽しく生活できればいいに決まっているが、
「それでいい」と思っているなら、
それだけの人生に過ぎないということである。

また、人間として生きている以上は、
時として健康を損なったり、
面白くない出来事に遭遇することもある。

そのような時でも平常心を保ち、
心静かに内観して反省と感謝をすること大切である。

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「まず第一に自分のことについて考え、
そして次に家族や友人のことを考えるのではないでしょうか?」


自分の人生の主人公は自分なので、
第一に自分のことについて考え、
次に家族や友人のことを考えることが悪いわけではないが、
誰もが自らを「自分」と呼んでいることを理解する必要がある。

「いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で、
自分の好きなことや楽しいことを考え、
そのイメージや目標に向かって進もうとしているのではありませんか?
そのイメージや目標が達成されるかどうかは別にして、
自分にとって都合のいいことばかりを考えているのではありませんか?」


世間一般の感覚からすれば、
自分の好きなことや楽しいことを考えることは「良いこと」で、
そのイメージや目標に向かって進むことは美徳だとされる。

これについても一言で語れるものではないが、
いくつかの観点から問題点を指摘しておこう。

好きなことや楽しいことを考えるとアルファ波が出るので、
心身の健康のために良いとして薦める医者もいるようだが、
まず原則として思考や感情が心を汚す原因となる。

それを言ってしまえば実も蓋もないが、
問題はその想像や妄想の中身である。

「いつも自分が真っ先で、あるいは自分が中心で」
と前置きがある通り、「好きなことや楽しいこと」が、
自己中心的で不調和な内容ではないかどうかである。

先ほど「自分軸」の話をしたが、
それは一般的にいう「自己中心主義」や「自分本位」ではなく、
「究極の自己中心主義」と呼べるもので、
家族や友人のことは二の次で、自分のことは三の次となる。

だが、それも一面的な見方であって、
一言で全貌を語れるものではなく、
今の段階では理解困難だと思うので話を進めることにしよう。

好きなことや楽しいことのイメージや目標に向かって進むことは、
往々にして「信念体系領域」に囚われ、
欲望や執着の実現を使命であるとさえ信じて疑わない人もいる。

仮に実現して満足したところで、
次の目標に向かって努力することが生き甲斐となり、
いつまでも輪廻の苦悩から抜け出せないということになる。

自我で「やりたい事」と真我で「やりたい事」は違うのか?
という質問がたまにあるが、
自我と真我は意識の方向性が正反対なので基本的に異なる。

もちろん、潜在意識の浄化が進めば、
真我の意識が自我に反映されるようになるが、
それでもやはり基本的には異なるものである。

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「うれしいことや楽しいことは、できるかぎりたくさん
あったほうがいいと思っているのではありませんか?
また、そのほうが幸せだと考えているのではありませんか?
何かうまくいかなかったり、思い通りにならなかったら、
イヤな思いをしたり、憂鬱になったりするのではないでしょうか?」


うれしいことや楽しいことは、
できるかぎりたくさんあったほうがいいし、
そのほうが幸せであることには違いない。

高次元の世界はそのようなものである。

半覚醒すると1人でジッとしていても嬉しくて楽しいし、
常に幸せであることを実感する。

だが、半覚醒しても嬉しくない現象は必ず起こるもので、
うまくいかなかったり、思い通りにならないことは世の常である。

もちろん、潜在意識が浄化されてくると嬉しい出来事が増えたり、
うまくいったり思い通りになることも増えてくるが、
嬉しいことしか起こらないとか、
何でもかんでも思い通りになるということは有り得ない。

だが、極端に喜んだりイヤな思いをしたり、憂鬱になったり、
一喜一憂することなく常に冷静な至福の不動心を保てるようになる。

たまに不愉快に思ったりすることがあっても、
常に魂の意識で客観的に想念を見張っているので、
即座に反省と感謝をすることになる。

また、釈迦が解いた「幸せ」の定義は、
「苦から解放されること」である。

これも多くの人が経験的に分かっているとは思うが、
人間界では苦を体験するからこそ、
喜びや幸せを感じることができるようになっている。

苦悩や苦痛が大きければ大きいほど、
それが解消された時の歓喜や幸福感も大きくなる。

だが、それはまだレベルの低い段階で、
自分が何か気付きを得る為に、
両極に大きくブレた現象と感情を体験するのである。

人類は集合的無意識で繋がっていて、
それを各人の潜在意識が自分の世界に投影しているので、
半覚醒に到達しても人間界的には苦悩は付き物だが、
感情がそれに囚われないようになるということである。

そもそも、人類の多くの魂が救いを求め、
悲痛の叫びを挙げている状態で、
「私は悟ったから幸せいっぱい」という者は偽物である。

もちろん、個人的に幸せいっぱいなことは結構なことだが、
人類が自分の投影であることを認識していれば、
必然的に自己犠牲的になってくるはずである。

また、半覚醒すればカルマを超越するという話があるが、
確かに一面的にはそれはあると思う。

5次元エネルギーで自然にカルマが解消するとか、
因果を超越した時間概念によって、
カルマの法則が作用しないことも考えられるが、
人間界に生きている以上は、
原則としてカルマの法則に従う必要がある。

また、「人類=自分」の感覚からすれば、
「人類のカルマ=自分のカルマ」であり、
個人的なカルマを解消して「私は自由の身」とするのは、
それこそ自分勝手な自己中心主義で、
何も悟れ(差取れ)ていないということになる。

私はクリスチャンではないが、
人類の罪を背負ったイエス・キリストの贖罪精神に共感するし、
それと同じ形態のホ・オポノポノを高く評価しているのである。

誤解のないように述べておくが、
決して「自己犠牲」が良いと言っているわけではない。

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「体調を崩して病気になったりすると、
健康になることを願い、治療法や健康法など
いろいろなことを試してみたりするのではありませんか?」


病気になれば健康を願い、
いろいろな治療法や健康法を試すのは当たり前のことである。

ここで山本健二氏が言っていることは恐らく、
病気の原因となっている内面を見つめることの必要性である。

3次元的に病気の原因は色々とあるだろうが、
3次元の世界はあくまでも投影である。

3次元的にどのような原因があろうとも、
それは「結果の世界」での原因に過ぎない。

それを改善することも大切だが、
「原因の世界」である潜在意識に目を向けて、
内観することが重要なのだ。

内観で心身の病気を克服した人は数知れず存在するが、
心の学校の体験談によると、
全身に転移した末期ガンが短期間で全快したという話がある。

世間ではこれを奇跡と呼ぶが、
病気治癒のメカニズムを理解すれば奇跡でも何でもなく、
当たり前のことだといえる。

もちろん、潜在意識が根本原因とは言えども、
食生活などの改善も大切なことである。

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「人間関係でも、他人に引け目を感じると、
そのコンプレックスをなくしたいと思うのではありませんか?」


外部の物質世界のみに目を向けることは、
悟り(差取り)と正反対の意識の方向性で、
自他分離観念を強くして他者を強く意識し、
他者の言葉や評価に対して過剰に反応したり、
他者を妬んだり、羨んだり、敵対心を持ったり、
あるいは劣等感を感じたりするようになるが、
そのような強固な自我を破壊していくのが内観である。

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「お金儲けができて、望んでいた物質的なものを入手して
いろいろなことができるようになると、
さらに「もっともっと……」と
願望を膨らませていくのではないでしょうか?」


そのような悪循環も内観によって断ち切ることができ、
半覚醒すればそのような幻想に囚われることもなくなる。

ただ、あらゆる欲望の根源は「食」にあり、
食をコントロールすることも必要だが、
食をコントロールできないのも精神面に起因する。

また、食物が性格や精神状態に大きな影響を与え、
あるいは頚椎や脊椎などの歪みや仙骨の振動低下などが、
血液・リンパ液・神経伝達物質・気の流れに障害を起こし、
精神を病ませたり歪ませたりもする。

欲望について言えば、欲望と戦う経験も大切だが、
人間から欲望を根絶することは不可能である。

欲望を浄化・昇華して、
欲望に支配されるのではなく正しく扱うことが、
意識進化の原動力にもなっていると思う。

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いずれにしても、悟ったといわれる人々の話をどれだけ聞いても、
それは単なる知識に過ぎず、自ら悟らなければ何も解決はしない。

また、半覚醒するための方法論を示さなければ、
どれだけ真理を説いても絵に描いた餅に過ぎないのだ。

まずそのことに気付かなければ、自立した意識進化は望めない。

尚、ニュートラル思考を学ぶなら、
「ありがとう仙人の幸せ玉手箱」がお薦めである。
posted by アンリ・クリスチャン at 04:38| Comment(1) | 第1章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
武士道という言葉には独特の境地があります。
深遠にして最奥はない・・・最奥は死ですか。

閣下との226は、現実としてはオフ会とかいうものだと思います。
肝心なのはその意味づけで、閣下の解釈に任せていたいのですが、対閣下との関係ならば追従していればいいのですが、閣下との関係を破地獄の種子さんに移写する場合、事実はどうであったのか、わたしの解釈はどうであったのか、結果はどうであったのか、を知っていただき、あなたなりにわたしと閣下の関係を解釈していただければ結構です。

感じ方はそれぞれでいいので、特に感想をコメントしていただく必要はございません。
Posted by オクト at 2010年07月22日 09:41
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