2010年03月27日

「無執着」の思い込みが無残に壊された瞬間

『絶対変革』より↓


子供の頃から、私は精神世界に興味を持っていました。
その興味はどんどん高まり、ヨーガ、神秘学、チベット密教、ヴェーダーンタ哲学などと勉学の範囲は拡がり、その奥義を極めようと、高名な方々ともお会いして議論を重ねていました。

すべての財産を処分し、精神世界に完全に没入していきました。
その世界にいた自分をいま振り返ってみると、調和した大自然と同化し、物質や金銭にとらわれることのない豊かな心で生きているという自覚がありました。
俗世間から離れて、何の不安も恐怖もなく、いわゆる安心の境地にいたわけです。
何が起きても、どんな人に出会おうとも対応できる自信がありました。
「この状態を深めていけばいい、そして極めればいい」そう私は考えていました。

しかし、あるとき突然転機が訪れました。
そのころ私は遠隔の地で独りで勉学に励んでいました。
当時私の子供はまだ小学校二年生でしたが、その娘が私の先生にこんな手紙を渡したのです。
「お父さんが早く帰るように、毎日、神様にお祈りしています。
神様にお願いしているから、お父さんは早く帰ってきてくれると思います」

当時、私の先生は57歳でしたが、そうした指導者のつねとして独身でした。
私は結婚していましたし、家族ぐるみで勉強している人間は例外中の例外でした。
また当時、先生はもちろん私も、子供とか家族とかは超越していると思っていました。
しかし、この手紙を見た先生は、「家族との普通の生活に戻ったほうがいいかもしれない」と私を諭したのです。

しかし、私は無一文です。自分の財産はすべて処分していましたし、故郷も捨てたつもりでした。
「子供を食べさせるには仕事を探して衣食住を確保しなければ・・・」
こう思った瞬間、かつて経験したことのない不安が生じたのです。
いままで「悟った」とか「無執着になった」とか確信していた者が、普通の生活に戻るということを思った途端に、「悟り」も「無執着」も崩壊していったのです。

「人間の生とは、死とは」、「人間にとって救いとは」、「人間の幸福とは」と大所高所から論じていた者が、あわれにも俗人の生活にからめ取られてしまったわけです。


転載終了

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『あるヨギの自叙伝』に次のように示されている。

「物質的執着を完全に断ち切った人の満ち足りた生活を想像してみよ!
衣類の心配をすることもなく、食欲に駆られることもない。
金銭の煩らわしさから解放されていて、
銭も扱わなければ物を蓄えることもなく、必要なものは常に神に委ねている」


私は俗世間に生きながら、これに近い生活を続けてきたが、
普通は聖者のようなレベルに到達しても、
現代社会で生活していくことは非常に難しいということなのだ。

私も幼少の頃から宗教や霊的な事に関心を持ち、
小学校4年の頃から悟りを探究してきた。
小学校5年生の頃から度々深い瞑想状態に入り、
天人合一を体験してきたが、27歳の時にかつてない至高体験をした。

当時一人暮らしで無職同然だった私は約20日間、
お酒も飲めない断食状態を余儀なくされた。

そして、部屋に引きこもって(世俗から離れたような状態で)
ずっと寝たきりで瞑想を続けていると、自分の姿形(霊体)が消滅し、
宇宙空間と同化したような一体感を味わった。

この時、神の実体を知り、
そして「我、大宇宙なり」という宇宙即我の境地を体験した。

この至高体験によって私の意識に大きな変容が起きたが、
複雑な人間関係の社会に入ると凡人に戻ってしまう自分に気がついた。

神秘体験をして悟りを開いたつもりだったが、
日常生活で何も活かせていなかったのだ。

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その後、会社経営やアルバイトで世俗にまみれながら、
ネオデジタル内観などの霊性修行を続けて半覚醒に到達した。

その後の私は細々と個人事業を営みながら、
家賃も払えない収入で極貧生活を続けてきて、
何とか住まいは確保しながらもホームレス同然の生活で、
しかし、さしたる不安もなく絶対的な安心立命の境地で、
天流れに任せてなるようになってきた。

家庭を持っていないから不安もないのかも知れないが、
この境地はネオデジタル内観の賜物だと思っている。

また、あまり自分のことはどうでもよくなり、
自分の身の回りのことはそっちのけで、
ほぼ人々の為だけに生きてきたといっても過言ではない。

半覚醒すると、「自分」という概念が変わるからである。

いや、自我ではあくまでも自分は自分だが、
半覚醒した魂の意識では「人類=自分」と認識しているため、
必然的に自己犠牲的になってしまうのである。

それは半覚醒する為に、
あるいは半覚醒を定着させる為には必要なことだが、
度が過ぎれば本末転倒なので、
人間の「自分」という中心軸は、
基本的に失わないようにして頂きたいと思う。

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釈迦やイエスは世俗を離れて修業をしたが、
現在社会に生まれた我々に求められている課題は、
「日常生活の中で悟りを開く」ということである。

大本教の出口直や出口王仁三郎も、
決して世俗から離れて修業したのではなく、
極貧生活の中で辛酸を舐めながら真理を掴んでいった。

『日月神示』には次のように示されている。

「世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。
合わせ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ」


不思議研究所の森田健氏の著書『ハンドルを手放せ』の中にも、
同様の事が書かれているので紹介しておきたい。

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本当の導師は世俗を生きる

意外かも知れませんが、
導師である現代の仙女はマンションに住んでいるのです。
それもペントハウス(最上階)なのです。

そして結婚までしています。そして子どもまでいます。
子どもは三歳で、とてもとても甘えん坊です。

導師が出かけようとすると「マミー」と泣き出してしまいます。
導師はしょうがないから引き返し、子どもを抱きしめてあげます。
すると泣きやみます。彼女は普通の主婦なのです。

マンションの最上階が導師の部屋で、屋上も彼女のものです。
導師はここに仙人食のスープになる食物を植えています。
最近の仙女はガーデニングで仙人食を栽培しているのです。

私は、このスープをずいぶんとご馳走になりました。
大変においしかったです。しかし日本にはない植物なのです。

導師の屋上から見渡すと、一方は都会でもう一方は山々です。
導師は都会と山の境に住んでいるのです。

決して山の中にこもっているわけではありません。
人里離れたところで暮らしているわけではありません。

ここが重要なポイントです。
本当の導師は世俗を生きなければならないと私は思います。
善悪の両方が充満する都会の中で生きなければなりません。

真の覚醒は、山水画の絵に出てくるような
洞窟の中では起こり得ないのでしょう。
たとえそこで起こってもどうするというのでしょう。

私たちは世俗を生きています。家庭を守らなければなりません。
勤めている会社を放り出して、悟りの旅に出るわけには行かないのです。

道教に「和光混俗」という言葉があります。
同じく道教には「日常生活即是道」という言葉があります。
私は思います。本当の覚醒は世俗の中で起こらなければならないと……。

「森田さん、仙女に会ったんでしょう?
もちろん山の中に住んでいるのですよね」

こう聞かれます。マンションに住んでいると答えると、

「それ、本物じゃないわよね」

と言われます。私たちの先入観は恐ろしいのです。
イメージが合わないと排除しようとします。
主婦で子持ちでマンション暮らしで……
もはやそれは仙女ではないと。


だが、導師は決して世俗には染まっていないそうで、
それは私も同じである。

次に、伝説のヒマラヤ聖者
マハー・アヴァター・ババジをご存知だろうか。

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彼は、西暦203年11月30日生まれの不老不死のヨギである。

1800歳を超えているが外見は青年で、生死を超越し、
テレポーテーションや宮殿の物質化などの超能力を持ち、
我々がイメージする通りの仙人的な聖者である。

だが、奇跡は人の意識改革の為に起こす事があるだけで、
超能力の使用は厳しく戒めている。

そのヒマラヤに隠遁するババジに、
弟子入りを求めた人物の話が
『あるヨギの自叙伝』の中に記されている。

「お前の今生における役割は、世の人々の中で演じられなければならない。
お前は過去世で、何度も静かな瞑想に恵まれた隠者としての生涯を過ごしてきた。
それゆえ今度は、俗世間の真ん中で暮らさなければならない。

今回、お前が世間一般の家庭と仕事を持った一社会人になるまでわたしに会わなかったことには、深い目的があったのだ。
お前は、このヒマラヤの聖者の群れに加わりたいという願いを、今は捨てなければならない。

お前の今生の役割は、市井の中で生活して、家庭人としてのヨギの理想的な模範を人々に示すことにあるのだ。
世の悩める人々の叫びが、偉大なる師たちの耳に聞こえている。

お前は、クリヤ・ヨガを通じて多くの真剣な求道者たちに霊的救いをもたらす者として神に選ばれたのだ。
世の多くの人々は、家庭的きずなや雑多な世間的責任のために霊的修行を妨げられているが、彼らは、自分と同じ立場にあるお前を見て勇気づけられるだろう。

お前は彼らに、ヨギの最高の境地に至る門が普通人にも開かれていることを知らせなければならない。
たとえ俗世間の中で生活していても、ヨギとして、一切の個人的動機や執着を離れて自己の責任を果たす者は、確固たる悟りの道を歩む者だ。

お前は、もはや俗世を捨てる必要はない。
お前はすでに、内的にはあらゆるカルマのきずなを断ってしまったからだ。
お前はもう俗世の者ではないが、まだしばらく俗世の中に居なければならない。

お前にはまだ、家庭的、職業的、社会的、霊的勤めを果たしながら生活しなければならない長い年月が残されている。
お前の放つ新しい聖なる希望の息吹は、人々の渇いた心に浸透してゆくだろう。

そして彼らは、お前の内外両面に均衡のとれた生活を見て、解脱を得るために必要なのは、外面的に世を捨てることだということを理解するようになるだろう」


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また、輪廻を解脱した5次元霊である、
ホワイト・イーグルの霊示集『光への道』は、
人間が内在の神性を発現して神のようになる道を、
イニシエーション(意識進化)という形で説いている。

このイニシエーションは、
どこか山奥にこもって特殊な修行をすることでなく、
「人生がそのままイニシエーションである」と指摘している。

そして、初級イニシエーションは
「生活の中での一つひとつの気づき」で、
「人は神の子」「愛と奉仕が人間の道」
という真理に一歩一歩目を開いていくことだと説いている。

その為の効果的なメソッドが「ネオデジタル内観」であり、
5次元意識に覚醒する為のアセンション・プログラムなのだ。

上級イニシエーションは、人生の大きな転機の中で、
「自分を捨てて地球(宇宙)進化のために全面的に献身する」
という決断から始まるという。

人はこの決断をするならば、
1つの人生の中で幾段階ものイニシエーションの階段が上れ、
「一生涯で釈迦やイエス・キリストに近いところまで上れる」
ということが示されている。


私は幼少の頃から救世的な使命を感じていたが、
ネオデジタル内観を始めた29歳の頃に、
「自分を捨てて」というほどではなかったが、
地球進化のために全面的に貢献する決断をした。

29歳〜30歳の1年間かけてネオデジタル内観をして、
30歳〜31歳の1年間も再びネオデジタル内観をして、
命を捨てる覚悟で衝動的な強い救世の使命を自覚した。

そして31歳〜32歳の1年間もネオデジタル内観をして、
「半覚醒」という状態に到達したのだが、
それによって使命感のようなものは消失してしまった。

釈迦は「一切衆生を済度した」と言った。

釈迦の意識の世界では人類救済は完了したという意味で、
私もそれと同じような感覚になったのである。

しかし、その頃から相談メールや電話が相次いで、
自分の時間(生活)を捨てて対応に追われる生活になり、
7年くらい無償でそのような日々を過ごしてきたが、
それも程々にして新たなステージに進みたいと思う。
(2017年4月15日・記)
posted by アンリ・クリスチャン at 00:48| Comment(0) | プロローグ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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